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【北条時頼の登場!】引付衆の設置と宝治合戦!

皆さんこんにちは!

今回は北条時頼について解説していきます!

鎌倉時代も中盤に差し掛かり、御家人の問題も増えてきました。

北条時頼は鎌倉幕府が円滑に回るよう、様々な政策を打ち出しました。

建長寺を建立した人物としても有名です。

彼の功績を丁寧に確認していきましょう!

北条経時にも注目です!

↓前回の内容はこちらからご覧ください!!↓

北条経時の治世

〈1242年 北条経時 執権就任〉

祖父の「北条泰時」が60歳で亡くなりました。

〈北条泰時:Wikimedia Commons〉

「北条泰時」の息子は病気で亡くなっていたので、孫の「北条経時」が第4代執権に就任しました。

「北条経時」って誰だよって思う方も多いと思います。

彼の時代には特段大きな事件は起こりませんでした。

〈1252年 藤原頼嗣 将軍就任〉

経緯

将軍職に就いていた「藤原頼経」は成人し、ある程度御家人からの信頼を集めていました。

〈九条頼経:Wikimedia Commons〉

逆に長年幕府の中心を担ってきた「北条泰時」と「北条時房」も亡くなっており、北条氏の権力が少し不安定になります。

案の定、反北条氏のメンバーが「藤原頼経」を担ぎ上げ、対抗してきました。

「北条経時」は強硬手段に出ます。

結果

「北条経時」は「藤原頼経」をクビにして、6歳の「藤原頼嗣」を将軍にしました。

「藤原頼嗣」は「藤原頼経」の息子です。

飾りの将軍が欲しかったという訳ですね。

しかし「藤原頼経」は依然として鎌倉にいるので、「反北条氏」の勢力が残っていると覚えておいてください。

北条時頼の治世

〈1246年 北条時頼 執権就任〉

「北条経時」が重病に罹ってしまい、政治を執る事が困難になりました。

そこで弟である「北条時頼」が第5代執権に就任します。

〈北条時頼:Wikimedia Commons〉

北条氏の中でも、非常に優秀な人物です。

彼の功績を確認していきましょう!

〈1247年 宝治合戦〉

「北条時頼」は鎌倉に残っていた反乱分子である「藤原頼経」を京都に送り返します。

その時の護衛を務めていたのが、「三浦氏」でした。

「三浦氏」は反北条氏の人物なので、「藤原頼経」を京都に送り返す事に不満を感じていたそうです。

「北条時頼」はすかさず「三浦氏」討伐に動き出します。

「宝治合戦」の始まりです。

三浦氏の惣領は「三浦泰村」という人物です。

しかし戦いが始まっても「三浦泰村」は勝てないと諦めていたらしく、法華堂で三浦氏500人が集団自殺します。

〈三浦一族供養墓:Wikimedia Commons〉

「北条時頼」は反乱分子の排除に成功し、「得宗専制政治」を開始します。

「得宗」=「執権を輩出出来る北条氏の一族」を指します。

〈1249年 引付衆 設置〉

「北条泰時」の時に裁判の迅速化を図りましたが、それでもなお裁判がパンクしていました。

「北条時頼」は裁判を効率化する為、「評定衆」の配下に「引付衆」を設置しました。

将来「評定衆」として活躍できそうな人物を採用し、裁判の判決を出させました。

その判決を「評定衆」が審議し、裁判の結論を出すという流れを作ったのです。

いかに土地問題のトラブルが多かったのか伝わって来ますね。

〈1252年 宗尊親王 将軍就任〉

経緯

「北条時頼」は現将軍である「藤原頼嗣」に目を付けます。

「藤原頼嗣」の父の「藤原頼経」は反北条氏だった上に、朝廷でも「藤原頼経」の家族が力を持ち始めていました。

藤原氏を危惧した「北条時頼」は「藤原頼嗣」をクビにして、新しい将軍を立てる事にします。

結果

ここで名前が挙がったのが「宗尊親王」です。

〈宗尊親王:Wikimedia Commons〉

「宗尊親王」は「後嵯峨天皇」の息子です。

〈後嵯峨天皇:Wikimedia Commons〉

「後嵯峨天皇」は承久の乱で土佐に流された「土御門天皇」の息子です。

「宗尊親王」の母は身分が低かったらしく、皇位に就ける望みがありませんでした。

飾りの将軍が欲しい「北条時頼」と、「宗尊親王」の出世を望む「後嵯峨天皇」の思惑が合致し、第6代将軍として就任しました。

~ここでちょっと復習~

3代将軍「源実朝」が亡くなった時、新しい将軍誰にする問題が発生しました。

その時も幕府は朝廷に皇族将軍を求めましたが、その時は断られました。

理由は「後鳥羽上皇」だったからです。

「後鳥羽上皇」は反幕府派だったので、皇族を将軍に差し出すのは反対の立場でした。

しかし現在は「承久の乱」を経て「反幕府派」は一掃し、「親幕府派」の「土御門天皇」の家系が皇位に就いています。

以上の理由から、今回は皇族の将軍を貰うことが出来たのです。

〈1253年 建長寺 完成〉

「北条時頼」は熱心な仏教徒で有名です。

肖像画を見ても、坊主ですよね。

仏教の中でも臨済宗を信仰していました。

↓臨済宗について解説しています、こちらもご覧ください!!↓

「北条時頼」が建立したお寺を「建長寺」と言います。

〈建長寺:Wikimedia Commons〉

鎌倉にある臨済宗の寺院の中で、特に格式高い寺院を「鎌倉五山(かまくらござん)」と言います。

  • 建長寺
  • 円覚寺
  • 寿福寺
  • 浄智寺
  • 浄妙寺

「建長寺」は鎌倉五山の中でも一番格式が高いので、「北条時頼」の本気度が伝わって来ます。

「建長寺」を代表するお坊さんは「蘭溪道隆(らんけい どうりゅう)」です。

〈蘭溪道隆:Wikimedia Commons〉

〈1263年 11月22日 北条時頼 死去〉

鎌倉時代の「吾妻鏡」には、「北条時頼」の臨終の様子が記されています。

〈吾妻鏡:国立公文書館〉

袈裟を纏い座禅を組み、阿弥陀如来像の前で息を引き取ったと言われています。

「北条時頼」は質素且つ堅実で、宗教心にも厚い人物でした。

執権権力を強化する一方で、御家人や民衆に対して善政を敷き、今でも名君として高く評価されています。

私個人の意見ですが、もっと有名になるべき人物だと思います。

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