皆さんこんにちは、パルです!
今回は松平定信と寛政の改革について解説していきます!
江戸三大改革の2つ目である寛政の改革について、読者の皆さんは違いをバッチリ説明できますか?
おそらく松平定信が主導したくらいが限界ではないでしょうか笑
若くして政治を主導した彼の治世を確認していきましょう!
松平定信は田沼意次の逆の政策を実施しますので、田沼意次の政策を復習したい方は、こちらをご覧ください!
松平定信の生い立ち

〈画像:Wikimedia Commons〉
松平定信(上の写真)は1759年(宝暦9年)紀州徳川家で、将軍徳川吉宗の孫として誕生しました。
既にここから知らない人も多いのではないでしょうか?笑
実は「松平」という苗字は「徳川家康」が幼いころに名乗っていた苗字です。
つまり「徳川」と「松平」はバリバリの親戚です。
そしてこの当時「田安」「一橋」「清水」の御三卿という徳川家の血筋が新しく設けられており、定信は最初「田安定信」と名乗っていました。(高校で習うのでおまけ程度で覚えてください)
また、幼い頃より高い教育を受け、学問にも秀でていました。
特に儒教の朱子学に興味を持ち、朱子学を中心とした思想に基づいた統治を、理想とするようになりました。
定信は元々将軍家に近い家系ではあったが、直接的な政治の中心にいた訳ではありませんでした。
松平定信は成長すると白河藩を任せられるようになり、天明の大飢饉を餓死者0人で乗り切るという快挙を達成します。

〈画像:Wikimedia Commons〉
そしておじいちゃんである徳川吉宗(上の写真)が、幕府の後継者問題により、第8代将軍に就任すると、若き天才である松平定信も注目されるようになりました。

〈画像:Wikimedia Commons〉
10代将軍徳川家治の時代、側用人の田沼意次(上の写真)が政権を握り、商業重視の政策によって経済活動は活発化する一方、賄賂や汚職が横行し、武士階級からの反感を買っていました。
家治の死後、第11代将軍・徳川家斉(下の写真)が就任すると、幕閣内での勢力争いが激化します。

〈画像:Wikimedia Commons〉
今までの田沼意次のような革新的な政治は良くないとし、保守的な政治を志す勢力が台頭し、定信に白羽の矢が立てられるようになりました。
松平定信、寛政の改革を始動
1787年、定信は老中首座に任じられ、幕政の中心に立つことになります。
悪化している幕府の財政状況を立て直し、田沼意次の賄賂政治を刷新するべく「寛政の改革」が始まりました。
お手本としたのは、享保の改革です。
とは言っても、中学ではそこまで覚える内容は有りません。(高校生はしんどいです)
中学生は①〜④までを覚えましょう!
〈寛政の改革の内容〉
①倹約令
②囲米の制
③七分積み金
④出版統制令
⑤人足寄場の設置
⑥旧里帰農令
⑦棄捐令
①〜④を解説していきます。
①倹約令
これは享保の改革の時と一緒です。
節約することで、財政の引き締めを行う政策です。
②囲米の制
飢饉対策の政策です。
各大名の土地1万石につき50石の米を蓄えさせとく事で、緊急事態に備えさせました。
ちなみに10万石=お米1億合です。(1合=330g)
③七分積金
囲米の町人バージョンです。町の運営費を節約させ、その70%を緊急事態に備え貯めさせました。
④出版統制令
これは完全に民衆統制の法令です。
幕府の批判した者を処罰したり、治安が悪化する本を書くことを禁止しました。
また、上下関係を意識させる為に、朱子学の奨励し、他の学問は「異学」として禁止しました。
この出版統制令に、林子平(下の写真)の海国兵談が引っかかりました。

〈画像:Wikimedia Commons〉
海国兵談には、日本は海に囲まれていて、いつ外国から攻められるか分からないから、有事の際の為に国の防御を高めるべきと書いてありました。
これは民衆の不安を煽る書物だとして、海国兵談は出版禁止、林子平も自宅謹慎になりました。
しかし同年、北海道の根室にロシア人のラクスマン(下の写真)が来航し、貿易を求めてきました。

〈画像:Wikimedia Commons〉
つまり海国兵談は、時代の的を得た書物だったのです。
これら一連の改革はあまりに厳しく、次第に批判を受けるようになります。
倹約を強制された庶民の不満、統制の強化による反発、特に出版統制による知識人や文化人の不満は、大きいものがあり、時代を風刺する歌が詠まれました。
「白河の 清きに魚も 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」
意味は「白河藩の殿様(松平定信)はクリーン政治を行っているけど、度が過ぎていて、住みにくくなってしまった。不正があってクリーンとは言えなかったけど、ある程度自由にやらせてくれて、賑やかな世の中だった、田沼意次の時代に戻らないかなぁ。」
この歌が流行するほどに、民たちは厳しい統制の中で生きていました。
また、将軍の家斉自身がまだ若年であったが故に、次第に親政を望むようになり、老中である定信との意見と対立していくようになりました。
1793年、ついに松平定信は老中の職を解任され、政界から退くことになります。
改革の多くは定信の辞任後に緩和・撤回され、その多くが一時的なものに終わってしまいました。
その後は徳川家斉が政治を主導していきました。
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