皆さんこんにちは!
今回は足利義教について解説していきます。
足利義教は「最澄以来の天才・籤引き将軍・籤将軍・還俗将軍・悪御所・万人恐怖」など、様々な呼び名があります。
多くの魅力がある将軍を詳しく見ていきましょう!
↓足利義教の父・足利義持の政策を知りたい方はこちらをご覧ください!!↓
足利義教の治世
〈1428年 正長の土一揆(正長の徳政一揆)〉
「正長」は当時の年号で、「足利義教」が定めた年号です。
正長の土一揆が起きた理由は意外と複雑です。
当時の経済状況に注目しながら、経緯を確認しましょう。
経緯
室町時代には産業が発達し、「高利貸し」と呼ばれるお金貸し屋さんが登場しました。

〈高利貸し:Wikimedia Commons〉
お金を貸すという事は、借りる側の人は借金証書を書きます。
借りる側の人の中には、百姓の他に「馬借・車借」という運送業者の人達もお金を借りていました。

〈近江国坂本の馬借(画面右):Wikimedia Commons〉
当時異常気象によって大飢饉が勃発し、疫病も重なって農民達は極限の生活を強いられていました。
そんな状態で借金なんて返せる訳がありません。
近江国坂本の馬借が「徳政」を要求した事により、暴動が激化します。
「徳政」=「借金帳消し」を指します。
高利貸しの家に乗り込み、借金証書を破ったり燃やしたりする事で、借金を無理やり帳消しにしたのです。
一種のテロ行為ですね。
結果
幕府も鎮圧にあたりましたが、一揆の勢いは止まる所を知りません。
自分の命が懸かっているので、死ぬ物狂いで借金帳消しを求めたのです。
幕府はこの暴動を黙認するしかありませんでした。
ここで登場するのが、奈良県奈良市柳生町にあるお地蔵さんです。

〈大きな岩に彫られているお地蔵さん:Wikimedia Commons〉
お地蔵さんの右下に、文字が彫られています。

〈徳政碑文:Wikimedia Commons〉
碑文には
正長元年ヨリ
サキ者カンへ四カン
カウニヲ井メアル
ヘカラス
(正長元年より先は、神戸四箇郷に負い目あるべからず)
現代語に直すと
正長元年より以前の、神戸(かんべ)四箇郷における負債は一切消滅した
という意味になります。
借金が帳消しになった喜びを石に刻んだのでしょう。
この暴動を受け「足利義教」は、将軍の権威を強化する必要があると感じたようです。
この後から「万人恐怖」と恐れられる政治が展開されます。
〈1429年 播磨の土一揆〉
「正長の土一揆」に触発されて起こりました。
守護大名「赤松満祐」の家臣追放を要求して、国人と農民が結託して反乱を起こしました。
追放の要求をした理由までは分かっていませんが、恐らく悪政を敷いていたのだと思われます。
当時を表す書物の「薩戒記(さっかいき)」には次のように記されています。
侍をして国中にあらしむべからざる所と云々
現代語訳は
播磨国内には侍の居住を許さない
農民と国人は武士達を攻撃し、守護の軍勢の殺害や追放を行いました。
「正長の土一揆」により農民は自分達で武力を用いれば、支配者に対抗できると気付いたのです。
この考え方こそが、戦国時代の幕開けに繋がるのです。
〈1429年 3月15日 足利義教 征夷大将軍に就任〉
「足利義教」は「後花園天皇」から征夷大将軍に任命されました。
籤引きで当選してから将軍就任までに時間が空いているのは、「髪の毛が生えているのを待っていたから」です(笑)
元服の儀式は「月代を剃り、烏帽子を被る」なのですが、「足利義教」は元服する前に出家していた為、現世では子供扱いなのです。
元服の儀式が出来るまでの髪を用意する為に、1年間ほど待ったのです。
〈1429年 琉球王国 建国〉
意外と知られていませんが、室町時代に「琉球王国」が成立しました。
「琉球王国」は現在の沖縄県のあたりです。
下の図は「琉球王国」の最大版図を表しています。

〈琉球王国の最大版図:Wikimedia Commons〉
「琉球王国」を建国したのは「尚巴志(しょうはし)」です。
「琉球王国」は元々、「三山(中山・山北・山南)」という3つの地域に別れ、戦国時代のような争いが行われていました。
「尚巴志」は「山北」の勢力で、「中山・山南」を滅ぼし、琉球を統一しました。
1871年に出された「廃藩置県」に伴い、1879年の「琉球処分」が行われるまで、「琉球王国」は存続しました。
〈1432年 日明貿易 再開〉
「足利義持」によって停止されていた日明貿易を再開しました。
「朝貢貿易」ではありますが、幕府の財政は圧倒的に潤うのが魅力的だったのでしょう。
「足利義教」は自分のプライドより幕府の財政を優先させたのです。
経験のない政治でも上手くこなす、「最澄以来の天才」の片鱗が感じ取れます。
〈1438年 文引の制 確立〉
朝鮮との外交です。
1419年の「応永の外寇」以来、日朝関係は断絶していました。
「応永の外寇」が発生したのは、倭寇を恐れたからでしたよね。
「文引の制」では、朝鮮と通交する場合、宗氏の発行する通行許可証(=文引)が必要と定められました。
国交を正常化する上で、宗氏の支配下で行うと定められたのですね。
〈1438年~1439年 永享の乱〉
今回は「足利義教」と「足利持氏」の対立です。
2人の対立は時代を大きく動かしていきます。
丁寧に確認していきましょう。
経緯
「足利持氏」は「足利義持」の後継者問題が浮上していたので、将軍になりたいと幕府に手紙を出していました。
しかし籤引きで「足利義教」と決まったので、「足利持氏」は面白くありません。
加えて「足利義教」を「還俗将軍」とバカにしていました。
反乱のキッカケは「足利持氏」の息子である「賢王丸」の元服です。
今までの慣習通りだと、「足利義教」の「教」の字を賜り、「足利教氏?」みたいな名前にするべきだったのですが、平気な顔をして「足利義久」と名付けました。
完全に幕府に対する謀反なので、関東管領の「上杉憲実」は抗議の意味を込めて元服式を欠席します。

〈上杉憲実:Wikimedia Commons〉
その後「上杉憲実」は関東管領を辞任し、自国領の「上野国(こうずけのくに)」に帰りました。

〈上野国:Wikimedia Commons〉
「上杉憲実」の一連の行動を反逆行為と認定し、「足利持氏」が挙兵します。
「永享の乱」開戦です。
結果
元々「足利持氏」の不穏な動きを察知していた幕府は対策を練っていました。
挙兵の知らせを受け取るとすぐに大軍を関東に派遣しました。
圧倒的な軍事力で「足利持氏」は降伏し、「称名寺」で出家しました。
その後「永安寺」に送られました。

〈称名寺:Wikimedia Commons〉
しかし「足利義教」は超絶強気な姿勢を示します。
「上杉憲実」は「出家してるのだから助命してくれ」とお願いしましたが、聞き入れませんでした。
「永安寺」に兵を送り込み「足利持氏」は自害、「足利義久」は「報国寺」で自害しました。
〈1441年 結城合戦〉
経緯
「足利持氏」に「結城氏朝」という武将がいました。

〈結城氏朝:Wikimedia Commons〉
「結城氏」は「足利持氏」に大きな恩がある一族だったので、幕府に復讐を考えます。
「足利持氏」の遺児である「春王丸」と「安王丸」を担いで反乱を起こします。
永享の乱の第2回戦「結城合戦」の開幕です。
結果
鎌倉公方に恩があった人々が続々と集結しました。
籠城戦で中々決着は付きませんでしたが、幕府軍の総攻撃によって結城城は陥落しました。
「春王丸」と「安王丸」は捕まり、京都に送られます。
しかし「足利義教」の命令で殺害されました。
将軍に反抗した者は、子供であろうと許さないのです。
〈1441年 嘉吉の乱〉
「足利義教」と側近達が、京都にある「赤松教康」の屋敷で暗殺された事件です。

〈赤松教康:Wikimedia Commons〉
首謀者は「赤松満祐」と息子の「赤松教康」です。

〈赤松満祐:Wikimedia Commons〉
経緯を詳しく見てみましょう。
経緯
長きに渡る関東の反乱の平定の祝いが、「赤松氏」の屋敷で開催されていました。
祝いの内容は、当時流行していた「猿楽」です。
このお祝いに「足利義教」も出席していました。
しかしこの祝いは「赤松満祐」の罠です。
以前「赤松満祐」の弟の「赤松義雅」が「足利義教」の怒りを買い、所領を没収される出来事がありました。
周りからは、「次は赤松満祐の番かもしれない」と噂されていたのです。
その噂が現実になる前に暗殺しようと考え、屋敷に招待したのです。
結果
突如屋敷に大量の馬が放たれ、障子を開け武士が乱入します。
「足利義教」とその側近達が暗殺されました。
「赤松満祐」と「赤松教康」は自国領の「播磨国」に帰国しました。

〈播磨国:Wikimedia Commons〉
赤松氏討伐の軍は1ヶ月経った後「山名持豊」を中心に組織され、自害に追い込みました。

〈山名持豊:Wikimedia Commons〉
その後「山名氏」には恩賞として、領地が与えられています。
「足利義満」の治世に勢力を削がれた「山名氏」は、「足利義教」の敵討ちで勢力を取り返したのです。
管領の「細川持之」を中心に、次期将軍を誰にするか会議が開かれました。

〈細川持之:Wikimedia Commons〉
「足利義教」の息子の「足利義勝」が後継者に決定し、将軍就任の準備に取り掛かります。

〈足利義勝:Wikimedia Commons〉
「足利義勝」は当時まだ8歳なので、当然元服は終えていません。
「足利義教」と時と同様に、元服式を終えたら将軍就任となります。
〈1441年 嘉吉の徳政一揆〉
今回の徳政一揆は少し性質が違います。
一言で表すと「代始めの徳政一揆」です。
当時の人々の感覚では「将軍が変わる」=「新しい時代が来て、今までの刷新する」というイメージが強かったのです。
現代を生きる我々も、天皇や総理大臣が変わると、少し違う世の中の雰囲気を感じますよね。
「足利義教」が暗殺され「足利義勝」が将軍になると、今までの借金もチャラにしてくれという要求が出たのです。
1428年の「正長の徳政一揆」の要求が通ったので、農民は少し調子に乗ってたのかもしれないですね(笑)
「嘉吉の徳政一揆」は全国に波及し、幕府は要求を認めました。
世の中の風潮もありますが、将軍が暗殺されて一揆まで対応しきれないので、要求を飲んだとも考えられています。
〈1442年 11月7日 足利義勝 征夷大将軍に就任〉
「足利義勝」が「後花園天皇」から征夷大将軍に任命されました。

〈後花園天皇:Wikimedia Commons〉
しかし「足利義勝」は、在任僅か8ヶ月で「赤痢」に罹り病死してしまいます。(満9歳)
弟でまだ8歳の「足利義政」が後継者に選ばれました。

〈足利義政:Wikimedia Commons〉
〈1443年 癸亥約定(嘉吉条約)〉
朝鮮との国交関係です。
内容は「宗氏から朝鮮への派遣は、年間50隻に制限する」です。
資料が少なく詳しい事は分かっていませんが、恐らく朝鮮側からの要求だと考えられています。
貿易にメリットが少なかったか、朝鮮側の負担が大きかったのが理由でしょう。
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文章が虫食い形式になっており、虫食いの[]の中に星1〜3が書かれていて、一目で単語の重要度分かります。
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