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【島原の乱勃発】徳川家光と禁教・鎖国への道を徹底解説!

皆さんこんにちは!

今回は生まれながらの将軍・「徳川家光」の政策について解説していきます!

彼の政策は、主に「参勤交代」、「キリスト教と鎖国」に分けて考えることができます。

江戸幕府の基礎を築いた「徳川家光」の政策を、海外の情勢に注目しながら見ていきましょう!

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ヨーロッパとの出会いと禁教への道

〈1600年 リーフデ号 漂着〉

日本が「オランダ」・「イギリス」とファーストコンタクトになった歴史的な出来事です。

オランダを出発した「リーフデ号」はインドネシアを目指して航海していましたが、「豊後国(現大分県)」に漂着しました。

〈リーフデ号:Wikimedia Commons〉

「リーフデ」はオランダ語で「愛」という意味です。

「リーフデ号」にはイギリス人の「ウィリアム・アダムス」とオランダ人の「ヤン・ヨーステン」が乗船していました。

〈ウィリアム・アダムス(右):Wikimedia Commons〉

〈ヤン・ヨーステン:Wikimedia Commons〉

徳川家康の命令で彼らは江戸に送られ、事情を聴取されました。

この当時「スペイン」と「ポルトガル」に代わって「オランダ」・「イギリス」が力を持つようになっていました。

徳川家康は海外の新たな情報源として、「ウィリアム・アダムス」と「ヤン・ヨーステン」を外交顧問として雇いました。

武士の身分を与え、「ウィリアム・アダムス」は「三浦按針(みうらあんじん)」、「ヤン・ヨーステン」は「耶揚子(やようす)」と名乗るようになりました。

彼らは「スペイン」・「ポルトガル」の布教活動の危険性を、「徳川家康」に説きました。

1604年 朱印船貿易 開始〉:南蛮貿易の延長

織田信長は仏教勢力と対立していた為、その勢力を弱める意味も有り、キリスト教の布教を許可しました。

豊臣秀吉は最初キリスト教を許可していましたが、キリシタン大名の「大村純忠」が九州の土地をキリスト教に寄進(プレゼント)していると知り、事情が変わります。

キリスト教を許可制にする事で対策はしましたが、「南蛮貿易」の利益は大きく、実際は黙認されていました。

〈南蛮貿易:Wikimedia Commons〉

ここで絶対に覚えてほしいことがあります。

「スペイン」と「ポルトガル」は「カトリック」の国という事です。

カトリックに対して日本が室町時代の頃に、「ルター」が宗教改革を行い誕生したのが「プロテスタント」です。

〈ルター:Wikimedia Commons〉

代表的な国は「イギリス」と「オランダ」です。

カトリックとプロテスタントの最大の違いは以下の通りです。

「カトリック」=「貿易とキリスト教の布教がセット」

「プロテスタント」=「布教はせず、貿易だけでもいい」


江戸時代に入っても、「南蛮貿易」は続いています。

キリスト教を警戒している幕府は、将軍が与える「朱印状」を所持している船じゃないと貿易出来ないように制限しました。

〈徳川家康朱印状:Wikimedia Commons〉

この貿易を「朱印船貿易」と言います。

〈朱印船:Wikimedia Commons〉

〈1604年 ポルトガル船に糸割符制度適用〉

当時は「薩摩藩」や「越前藩」など、それぞれの藩ごとに貿易を行っていました。

各藩の商人がポルトガルの商人から「生糸」を仕入れていたのですが、ポルトガル商人は一番高値で買ってくれる商人に売りたいので、オークション形式を始めました。

〈絹(生糸を製品したもの):Wikimedia Commons〉

日本の商人は生糸が日本国内で売れるのが分かっている為、どんなに高くても生糸を仕入れます。

「仕入れた値段が高い」=「一般人が商人から買うときは、もっと高い」です。

これによりお金持ちしか、生糸を入手出来ないという事態が発生しました。

これを自体を重く受け止め、幕府は対策を打ちます。

「幕府が一括でポルトガル商人から仕入れて、藩に分配する方式」を採用しました。

この制度を「糸割符制度」と言います。

これによりポルトガルの商人は、幕府しか買い手がいないのでオークション形式は取れません。

商品と適正な値段で日本国内に流通させる為に、幕府がテコ入れしたのです。

〈1609年 オランダ商館 平戸に設置〉

オランダと「己酉(きゆう)条約」を結び、貿易を開始しました。

オランダ商館を長崎の平戸に設置しました。

東南アジアは「スペイン」と「ポルトガル」に代わって「オランダ」・「イギリス」の植民地が進んでいました。

「オランダ」はキリスト教の布教は考えていないと明言する事で、日本と友好的な関係を築いたのです。

〈1612年 幕領に禁教令〉:翌年全国に適用

「オランダ」は幕府にカトリックは布教と共に侵略する野蛮な国と説明し、キリスト教を封じ込めたい幕府は「禁教令」を出しました。

キリスト教徒あぶり出し政策として、「キリスト」の像を踏ませる「絵踏み」を行いました。

〈絵踏み:Wikimedia Commons〉

「キリストの像」=「踏み絵」と言います。

〈キリストの像:Wikimedia Commons〉

〈1623年 元和の大殉教〉

「元和」は当時の年号です。

この時の将軍は「徳川秀忠」で、彼はキリスト教を牽制する為に超強気の姿勢を見せます。

〈徳川秀忠:Wikimedia Commons〉

長崎が貿易の中心地でありキリスト教布教の中心地でもあったので、キリスト教宣教師55人を処刑する「元和の大殉教」を断行しました。

〈元和の大殉教:Wikimedia Commons〉

ヨーロッパに絶対に隙を見せない覚悟が伺えます。

1623年 徳川家光 征夷大将軍就任〉

「徳川家光」は「徳川秀忠」と「お江」の間に生まれました。

〈徳川家光:Wikimedia Commons〉

小さい頃は暗い性格で、弟に将軍の話が回ってくるほどでした。

しかしおじいちゃんの「徳川家康」が「年功序列を守れ」と口を出したことにより、将軍になる事が出来ました。

その為「徳川家康」が大好きで、日光東照宮の大改築を行い、現在の絢爛豪華な見た目になったのです。

「徳川家光」は江戸幕府の土台固めの総仕上げとして、キリスト教の禁止を進めていきます。

〈1624年 スペイン船 来航禁止〉

スペイン船の来航を全面禁止しました。

「スペインが衰え始めていた事」、「キリスト教の布教に熱心だった事」、「貿易してまで輸入したいものが無かった事」などの要因で、「スペイン」は必要無いと判断しました。

「ポルトガル」は相変わらず生糸を輸出してくれていて、日本にとって重要度が高いので貿易を継続しています。

〈1627年 紫衣事件〉

キリスト教とは無関係ですが、有名な事件なので紹介します。

簡単に言うと、「江戸幕と朝廷が対立した事件」です。

「紫衣」=「紫色の法衣や袈裟」を指します。

〈紫衣:山梨市HP〉

古くから宗派を問わず高貴な身分の僧・尼が朝廷から賜りました。

1615年に制定された「禁中並公家諸法度」により、「紫衣を勅許する場合は幕府に事前に報告しろ」と定められていましたが、守られない事が多かったようです。

「徳川家光」が「禁中並公家諸法度」を守らないと処罰すると圧力をかけたところ、大徳寺の「沢庵宗彭」を中心とするお坊さん達が抗議しました。

〈沢庵宗彭:Wikimedia Commons〉

「紫衣」は古来から朝廷の管轄なので、幕府に口出しされるのはプライドが許さなかったのです。

幕府は抗議を許さず、出羽国・陸奥国へと流罪にしました。

当時の天皇だった「後水尾天皇」は幕府の対応にブチぎれて、幕府に無断で譲位しました。(攘夷も幕府の許可制になっていました)

〈後水尾天皇:Wikimedia Commons〉

新しく皇位に就いた天皇は、「明正天皇」という、日本史上7人目の女性の天皇です。(女性天皇は計8名います)

〈明正天皇:Wikimedia Commons〉

「明正天皇」は実は異色の経歴の持ち主です。

2代将軍の「徳川秀忠」の娘である「徳川和子」が「後水尾天皇」に嫁いでおり、「和子」と「後水尾天皇」から生まれた子供なので、「徳川秀忠」の孫にあたる人物です。

〈徳川和子(明正天皇の母):Wikimedia Commons〉

裏を返せば「徳川秀忠」を外祖父に持つ、徳川家と「外戚関係」にある天皇なのです。

〈1631年 奉書船制度開始〉

朱印船貿易は「朱印状」が必要だと説明しましたが、「朱印状」に加えて老中が発行する「老中奉書」を持っていないと、貿易が出来ないように更に制限をかけました。

「朱印状」と「老中奉書」の二重警戒です。

〈1635年 参勤交代 制度化〉

「徳川家光」は外様大名を特に警戒し、反乱を起こさないように工夫をしました。

それが「参勤交代(さんきんこうたい)」です。

〈参勤交代:Wikimedia Commons〉

大名が1年毎に「自分の領地(藩)」と「江戸」を往復する制度です。

具体的な内容は、以下の通りです。

大名は4月から江戸に住み、翌年の4月からは自分の国に帰る。

大名の家族(特に正室や世継ぎの子ども)を人質として江戸に残す。

参勤交代によって、幕府は次のような効果を得ていました。

大名の財力を奪う

参勤交代では多くの家来や物資を連れて、長距離を移動する必要があります。

これには莫大なお金がかかり、江戸から遠い藩は1億円以上の費用が掛かりました。

大名の経済力を弱め、「反乱する財力」を削る狙いがありました。

大名を監視しやすくする

大名が定期的に江戸に来ることで、幕府は直接目を光らせることができます。

大名の妻や子どもを江戸に住まわせる事で、大名が反乱を起こせば「人質にとられている家族に被害が及ぶ」というプレッシャーを与えました。

大名同士の団結を防ぐ

参勤交代は1年置きに往復しますが、大名達はそれぞれ違うタイミングで江戸と領地を行き来していました。

大名同士が簡単に集まって話し合う事は出来ず、幕府に団結して反抗出来ないようにする工夫の1つでした。

〈1635年 日本人の海外渡航・帰国禁止〉

中々に酷い政策です。

海外に勉強しに行ってた人は帰国出来なくなり、日本人も海外に行くことが出来なくなりました。

平和の世の中で仕事が無くなった武士の中には、海外に行って戦う人が多い時代でもありました。

東南アジアでは戦争が巻き起こっていたので、仕事を探しに出稼ぎに行く武士が大勢いたのです。

しかしキリスト教と触れ合って帰国されると、江戸幕府としては困ります。

なので既に海外に行っている日本人は帰国を禁止し、新しく海外と触れ合う機会も潰したのです。

〈1637年~1638年 島原・天草一揆(島原の乱)〉

「島原・天草一揆」は九州の「島原半島(現在の長崎県)」と「天草地方(現在の熊本県)」で起きた大規模な農民一揆です。

〈島原の乱の原因〉

重税と圧政

島原藩主の「松倉勝家」と、唐津藩主の「寺沢堅高」は農民に過酷な年貢を課していました。

更に当時は飢饉も重なり、農民の生活は極限状態に達していました。

キリスト教弾圧

九州には多くの隠れキリシタンが住んでおり、幕府による宗教弾圧が不満を更に高めていました。


藩主の圧政に耐えきれなくなった農民の怒りが、遂に爆発しました。

「島原・天草一揆」の勃発です。

〈島原・天草一揆(島原の乱):Wikimedia Commons〉

反乱軍の総大将は、「天草四郎(本名:益田四郎時貞)」という16歳の若者です。

〈天草四郎(本名:益田四郎時貞):Wikimedia Commons〉

彼はキリスト教徒たちにとって「神の子」と崇められ、多くの信者や農民を纏めました。

農民は役所を襲撃、武器や食料を略奪し、「原城」に立て籠った一揆の軍は3万7000人にも上ります。

〈原城跡:Wikimedia Commons〉

一揆の情報を得た幕府は「板倉重昌」を総大将として、一揆の鎮圧を目指しました。

〈板倉重昌:Wikimedia Commons〉

しかし強い抵抗を受け、「板倉重昌」に一揆軍の矢が当たり戦死しました。

幕府軍も本気を出し、老中の「松平信綱」を総大将として12万の大軍勢を「原城」に差し向けました。

〈松平信綱:Wikimedia Commons〉

幕府軍が一揆軍の補給路を断つと、一揆軍は餓死するもので溢れかえり、数か月後に「原城」は落城しました。

一揆軍は自ら死を選ぶ者が続出しほぼ全滅、「天草四郎」も殺され、「松倉勝家」・「寺沢堅高」は処罰されました。

自殺するキリスト教徒を見て、幕府の兵は恐怖したと言われています。

〈1639年 ポルトガル船 来航禁止〉

島原・天草一揆を受け、キリスト教のヤバさを再認識し、ポルトガル船の来航を禁止にしました。

「カトリックの国と貿易は避けるべき」と腹を括った瞬間でもあります。

〈1641年 オランダ商館 出島に〉

オランダ商館を「出島」に移しました。

〈出島:Wikimedia Commons〉

外国人との関りを物理的に制限する事で、反逆の芽を潰したのです。

出島に移した事で、キリスト教を巡る政策は一段落しました。

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