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【総理大臣は誰?】初期の内閣と政党政治!

皆さんこんにちは!

今回は初期の内閣と政党政治について解説します!

日清戦争を経て、内閣がコロコロ交代する不安定な時期に突入します。

他の記事で解説出来なかった内容についても、時代順に触れていきます。

総理大臣の復習に使ってもらえると嬉しいです。

↓日清戦争について解説しています、こちらもご覧ください!!↓

第1次 松方正義 内閣

〈1891年 5月~1892年 8月 第1次松方正義内閣〉

総理大臣は第一次「松方正義」内閣です。

松方財政を展開し、日本をインフレからデフレに転換させた人物です。

〈松方正義:Wikimedia Commons〉

〈1891年 5月11日 大津事件〉

日本を訪問中していたロシア帝国の皇太子・「ニコライ二世」が、滋賀県(現・大津市)で突然斬りつけられ負傷した暗殺未遂事件です。

〈ニコライ二世:Wikimedia Commons〉

犯人は警察官の「津田三蔵」です。

〈津田三蔵:Wikimedia Commons〉

津田本人の供述によれば、犯行の動機は「以前からロシアの北方諸島(現:北方領土)に関しての強硬な姿勢を快く思っていなかった」とのことです。

「大津事件」を受けて当時の外務大臣の「青木周蔵」は辞任させられました。

〈青木周蔵:Wikimedia Commons〉

「青木周蔵」の辞任により、イギリスとの間で上手く進んでいた条約改正の話も無くなりました。

下の表は条約交渉の変遷を纏めています。

外務大臣・使節団年代対象国ポイント
岩倉使節団1871制度視察へと転換。
寺島宗則1873~1879関税自主権の撤廃を約束するも、英・独の反対で失敗。
井上馨1879~1887列強鹿鳴館時代(欧化政策)。
大隈重信1888~1889米・露・独国別に秘密交渉を展開。英紙「ロンドンタイムズ」が報道し、大隈が襲撃される。
青木周蔵1889~1891イギリスの賛成を得るが、大津事件により辞任。
陸奥宗光1892~1895日英通商航海条約を締結。
小村寿太郎1908~1911日英通商航海条約の満期延長。

ロシアとの関係悪化を恐れた日本は、「津田三蔵」を死刑を求刑するように、司法に圧力を加えました。

しかし時の大審院院長(現在の最高裁判所長官)の「児島惟謙(こじまこれたか)」は、

「法治国家として法は遵守されなければならない」

と主張し、「刑法に外国皇族に関する規定はない」として政府の圧力を跳ね除けました。

〈児島惟謙:Wikimedia Commons〉

結局従来通り、一般人に対する謀殺未遂罪を適用して、「無期懲役」の判決が下されました。


ロシア皇帝「アレクサンドル3世」は「死刑」を求めていましたが、結果的には賠償請求も武力報復も行われませんでした。

〈アレクサンドル3世:Wikimedia Commons〉

今回の事件を受けて「ニコライ二世」は、日本の迅速な処置や謝罪に対して寛容な態度を示しました。

それどころか、政府の圧力に屈しなかった「児島惟謙」を称賛したとも言われています。

そんな優しい心を持つ「ニコライ二世」は、13年後にロシアの皇帝として、日露戦争で立ちはだかるのです。

〈1891年 12月 足尾鉱毒事件〉

栃木県と群馬県の「渡良瀬川」周辺で起きた、日本初の公害事件です。

〈渡良瀬川:Wikimedia Commons〉

事の発端は渡良瀬川で大洪水です。

上流にある「足尾銅山」から流れ出した「排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの鉱毒」が大洪水と接触しました。

有毒な成分によって、稲が枯れる現象が各地で発生しました。

〈足尾銅山:Wikimedia Commons〉

「銅」を代表とする金属類は、人間の体に有害な成分が多く含まれています。

栃木県の政治家の「田中正造」が直訴しましたが、まともに取り合ってもらえませんでした。

〈田中正造:Wikimedia Commons〉

〈1891年 11月26日 第二議会 開催〉

政府は相変わらず、軍事費増強を狙っています。

第二議会で有名なのは「樺山資紀」の蛮勇演説です。

〈樺山資紀:Wikimedia Commons〉

端的に言うと、「今の日本があるのは薩摩・長州のお陰だから、予算案に文句を付けるな」と演説しました。

「樺山資紀」は薩摩藩出身で、超然主義です。

当然民党から猛反発があり、軍事費増強どころか、軍事費削減案が可決しました。

政府と世論の食い違いから、議会は解散しました。

〈1892年 5月6日 第三議会 開催〉

〈1892年 品川弥二郎 選挙大干渉〉

内務大臣の「品川弥二郎」が民党の選挙を妨害し、400人以上の死傷者を出しました。

〈品川弥二郎:Wikimedia Commons〉

妨害した理由は簡単で、「議会で過半数を取って、政府に有利な政策を通したいから」です。

しかし、そんなバカげた話に民党が耳を貸すはずがありません。

結局は民党が過半数をとって大勝利を収めました。

議題

引き続き総理大臣は第一次「松方正義」内閣です。

当然議題に上がるのは、選挙干渉です。

民党は完全にブチ切れています。

議会終了後、選挙干渉を非難され、松方内閣は総辞職しました。

第2次 伊藤博文 内閣

〈1892年 8月~1896年 9月 第2次伊藤博文内閣〉:元勲(げんくん)内閣

「元勲」は「日本の政治に対して、大きな功績を残した者」を指します。

「伊藤博文」は自由党の「板垣退助」と、進歩党の「大隈重信」に協力を要請しました。

〈伊藤博文:Wikimedia Commons〉

しかし2人は伊藤との協力を拒否しました。(板垣と大隈は仲が悪いです)

主な出来事は、以下の通りです。

  • 1894年:甲午農民戦争、日英通商航海条約、日清戦争
  • 1895年:下関条約、三国干渉
  • 1896年:進歩党結成

「日清戦争」の関連の出来事は、そちらの記事を参照ください!!

〈1896年 進歩党 結成〉

「進歩党」は「立憲改進党」と他の政党が合体した、ゴリゴリの民党です。

当主は「大隈重信」です。

〈大隈重信:Wikimedia Commons〉

他には「犬養毅」が有名です。

〈犬養毅:Wikimedia Commons〉

「進歩党」は僅か2年で瓦解しますが、「立憲改進党」が前進だと覚えておいてください!


吏党(政府の政党)は民党との協力が不可欠と考え、「自由党」や「進歩党」と連携を図る事にします。

しかし日清戦争では挙国一致で民党の協力を得られましたが、民党の増税反対の方針は変わりません。

「伊藤博文」は政権運営が困難と判断し、「松方正義」と進歩党に託しました。

第2次 松方正義 内閣

〈1896年~1898年 第2次松方正義内閣〉:松隈内閣

総理大臣は「松方正義」です。

「大隈重信」は外相に選ばれました。

「板垣退助」率いる自由党からの攻撃と、進歩党からの要求が大きすぎて、政権を担う前から基盤が不安定でした。

主な出来事は、以下の通りです。

  • 1897年:貨幣法制定

〈1897年 貨幣法 制定〉

金融史の転換点と言える出来事です。

日本が「金本位制」に移行しました。

「金本位制」=「紙幣に金の裏付けがある制度」を指します。

〈金貨幣(本位貨幣):Wikimedia Commons〉

ただのコインに見えますが、金から作られているのでめちゃくちゃ価値があります。

当時までは「銀本位制」を採用していました。

金や銀に裏付けがある紙幣を「兌換紙幣(だんしへい)」と言います。

金貨幣と兌換紙幣は引き換えが可能だったという事です。

〈兌換紙幣:Wikimedia Commons〉

「兌換紙幣」の場合、紙幣を発行できる枚数は、国が保有している銀の量までに限定されます。

一見不便に見えますがお金の価値が担保されるので、物価が安定するメリットがあります。


日本はずっと「金本位制」に移行したかったのですが、肝心の「金」が足りずに移行できませんでした。

「銀」でも良くね?と思われた方も多いと思いますが、世界は「金本位制」を採用しているので、「銀本位制」だと外国のお金の両替に手間が発生するのです。

日本は「日清戦争」で手に入れた賠償金を元手に、遂に「金本位制」に移行しました。

非常に重要な内容ですので、覚えておきましょう!

第3次 伊藤博文 内閣

〈1898年 1月~1898年 6月 第3次伊藤博文内閣〉

主な出来事は、以下の通りです。

  • 1898年:憲政党結成、地租増徴案否決

〈1898年 憲政党 結成〉

「憲政党」=「自由党+進歩党の合併により誕生した政党」を指します。

「板垣退助」の「自由党」と、「大隈重信」の「立憲改進党」は、この時に1つになっていたのですね。

〈1898年 地租増徴案 否決〉

政府はずっと増税したいと考えていますが、民党の「憲政党」から当然反発があります。

「伊藤博文」は政権運営に心が折れて、「憲政党」に、「お前らが政権やってみ?」と丸投げします。

こうして「憲政党」率いる政権が誕生します。

第1次 大隈重信 内閣

〈1898年 6月~1898年 11月 第1次大隈重信内閣〉:隈板内閣

実は初の政党内閣です。

陸軍大臣と海軍大臣以外は、憲政党員で構成されています。

「板垣退助」は内務大臣に就任しました。

〈板垣退助:Wikimedia Commons〉

主な出来事は、以下の通りです。

1898年:共和演説事件、憲政党分裂

〈1898年 共和演説事件〉

登場人物は文部大臣に就任していた「尾崎行雄」の発言です。

〈尾崎行雄:Wikimedia Commons〉

「尾崎行雄」は財閥中心の金権政治を批判していました。

大企業がばかりが良い想いをして、国民が苦しいのは良くないと考えていたのです。

この状態をアメリカの共和制に例えて、

「日本が共和制になったら、三井・三菱などの財閥が大統領になるだろう」

と発言しました。

「共和制」=「君主を持たない国家体制」を指すので、日本に天皇がいない場合を想定して発言しました。

しかし例えだとしても、天皇がいないのを想定するのは不敬だとして、非難の対象になりました。

「尾崎行雄」は辞任を余儀なくされてしまいます。

後任には「犬養毅」を指名しましたが、「板垣退助」が反対し内閣が崩壊しました。

〈1898年 憲政党 分裂〉

そもそも「板垣退助」と「大隈重信」は仲が悪いので、合併して国家運営するなど無理な話でした。

共和演説事件をキッカケに、

「旧自由党」のメンバーはそのまま「憲政党」

「旧進歩党」のメンバーは「憲政本党」

として再スタートを切りました。

第2次 山縣有朋 内閣

〈1898年 11月~1900年 10月 第2次山縣有朋内閣〉

「山縣有朋」は相変わらず超然主義です。

しかも今回は民党の内閣が倒れたばかりなので、気合いが違います。

自分の思う政策を押し通していきます。

主な出来事は、以下の通りです。

  • 1898年:地租増徴案可決
  • 1899年:文官任用令改定
  • 1900年:衆議院議員選挙法改正、治安警察法、軍部大臣現役武官制、立憲政友会結成

〈1898年 地租増徴案 可決〉

「山縣有朋」は憲政党と連携し、地租増徴案を可決させました。

これにより地租が「2.5%→3.3%」に増税されました。

憲政本党からは批判の声もありましたが、「政治運営出来なかったくせに文句言うな」と一蹴しました。

憲政本党としても痛い所を突かれ、強く反対できる立場にありませんでした。

〈1899年 文官任用令 改定〉

そもそも「文官任用令」って何?って思ってる方多いと思うので、経緯から説明します。

経緯

1893年に「文官高等試験」が作られて、役人を試験で採る制度が始まりました。

これを「文官任用令」と言います。

しかし「文官任用令」には問題がありました。

大臣や地方官(奏任官)には試験を使いますが、天皇が直接任命する役職(勅任官)には試験がい無かったのです。

その為、「政党がコネで役人の重要ポストを取る=猟官(りょうかん)」が相次ぎました。

「山縣有朋」は政党が大嫌いなので、この現状にテコ入れします。

結果

試験を受けないで役人になる「自由任用」を制限しました。

つまり、試験を受けた人(文官高等試験合格者)から採用する方針にしたのです。

コネ採用を減らし、試験による実力主義を強化したのですね。

この法令に至っては、至極真っ当な改正だと思います。

試験に合格した人に、政治に携わって欲しいですよね。

〈1900年 衆議院議員選挙法 改正〉

「25歳以上男子で直接国税を10円以上納めている人」に選挙権が与えられました。

一見優しい内容で政府にメリットが無いように思えます。

しかしあらたな有権者を設置する事で、政府のサポーターを増やす狙いがあったのです。

金持ち優遇政策を実施すれば、有権者は政府に賛成してくれるので、政府にも大きなメリットを享受出来ます。

選挙権の変遷を確認しておきましょう!

年号首相納税条件(直接国税)選挙権の条件(年齢・性別)
1889年(明治22)黒田清隆内閣年15円以上満25歳以上の男子
1900年(明治33)山県有朋内閣年10円以上満25歳以上の男子
1919年(大正8)原敬内閣年3円以上満25歳以上の男子
1925年(大正14)加藤高明内閣納税条件撤廃(=普通選挙法制定)満25歳以上の男子
1945年(昭和20)幣原喜重郎内閣納税条件なし満20歳以上の男女(女性参政権実現)

〈1900年 治安警察法 制定〉

日本政府が一番恐れているのは、社会主義の展開です。

資本主義が打倒されれば、自分達の利権はおろか、天皇の存在までも消されてしまいます。

それだけは絶対に避けなければいけないので、「治安警察法」を制定し社会主義者を取り締まれるようにしました。

〈1900年 軍部大臣現役武官制 制定〉

日本史上最悪の法令と言っても、過言ではありません。

内容は

陸軍大臣・海軍大臣の任命は、現役の大将・中将に限る

です。

政府が軍事費に予算を当ててくれなければ、大臣を出す事を拒否し内閣を倒す事が出来てしまいます。

そんな最悪の事態が大正時代で発生します。

この悪魔の法令を作ったのも、政党大嫌い人間の「山縣有朋」なのです笑

〈1900年 立憲政友会 結成〉

「山縣有朋」と「憲政党」はこの内閣で手を組んできました。

しかし、一通り思い通りの法令を制定した「山縣有朋」は、「憲政党」と手を切ります。

困った「憲政党」は政党に理解のある「伊藤博文」に党首の打診をします。

「伊藤博文」は党首就任を拒否しましたが、新たな政党を作る事で合意しました。

その政党が「立憲政友会」です。

山縣内閣は総辞職し、「立憲政友会」を与党に「伊藤博文」が総理大臣に就任します。

第4次 伊藤博文 内閣

〈1900年 10月~1901年 6月 第4次伊藤博文内閣〉

「立憲政友会」を基盤に内閣を組織しました。

〈立憲政友会本部:Wikimedia Commons〉

しかし「「山縣有朋」率いる貴族院からの反発が強く、政権運営は困難でした。

そもそも政府寄りの「貴族院」と、国民の世論が反映された「衆議院」での国会は、そんな上手くいくはずがありません。

今回で「伊藤博文」が総理大臣を務めるのも最後になります。

主な出来事は、以下の通りです。

1901年:八幡製鉄所操業開始、社会民主党結成

〈1901年 八幡製鉄所 操業開始〉

日本が重工業を本格的に操業開始しました。

「八幡製鉄所」は「日清戦争」の賠償金を元手に、建設されました。

「八幡製鉄所」は、福岡県北九州市にあります。

〈八幡製鉄所:Wikimedia Commons〉

「日清戦争」の勝利は日本に影響を与えすぎていますね笑

〈1901年 社会民主党 結成〉:即解党

日本最初の社会主義政党です。

増税の影響で国民の生活は苦しくなっていました。

苦しい現状を打破するべく、社会主義の政党が結成されたのです。

しかし「治安警察法」に引っかかり、即刻解党を命じられました。

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さぁ、日本史を楽しみましょう!

 

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