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【10分で分かる】日米修好通商条約と将軍継嗣問題!

江戸時代

皆さんこんにちは、パルです。

今回は日米修好通商条約と将軍継嗣問題について解説します。

歴史好きな方は、上の言葉を聞くだけで、幕末の面白さを既に感じているかもしれませんね笑

いよいよ本格的に幕末の動乱期に入っていきます。

時代が動く瞬間を見ていきましょう!

前回の内容が不安な方は、こちらをご覧ください!

日米修好通商条約の背景と内容

ペリーの来航後、幕府は1854年にアメリカと日米和親条約を締結し、下田と函館の港を開きましたが、これは通商が目的ではなく、薪水給与と難破民の保護の為でした。

しかしアメリカの初代駐日総領事であるタウンゼント・ハリス(下の写真)は、日本に対し通商条約の締結を強く求めました。

〈画像:Wikimedia Commons〉

通商にこだわったのは、イギリスやフランスなどに貿易の利益を独占されるのを危惧し、先にアメリカの利益にしたかったのが本音です。

このような中、幕府は外交方針をめぐって苦境に立たされていました。

阿部正弘の後、老中の堀田正睦(下の写真)が外交を主導し、彼は日米通商条約の調印にあたり、朝廷の勅許(天皇の許可)を得ようとしました。

〈画像:Wikimedia Commons〉

しかし孝明天皇は「外国の勢力に屈して開国するのは恥」として強く反対し、勅許を出しませんでした。

外国と朝廷の板挟みになった幕府は、大老に井伊直弼(下の写真)を据え、対応を求めました。

〈画像:Wikimedia Commons〉

井伊直弼は欧米列強に武力行使を食らうと日本が危ないと考え、1858年に勅許を得ないまま、ハリスとの間で日米修好通商条約(下の写真)に調印しました。(無勅許調印と言う)

〈画像:Wikimedia Commons〉

日米修好通商条約の内容を下記に纏めます。

〈日米修好通商条約の内容〉

神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港(段階的に実施)

江戸と大阪に外国人居留地の設置

関税自主権の欠如(輸出入品の税率を自由に決められない)

領事裁判権の承認(外国人が日本で罪を犯しても日本の法律で裁けない)

絶対に覚える事は、日本に一方的な義務が多い「不平等条約」だという事です。

明治に入ると条約改正を目指し続けるので、この条約が原因だと覚えておきましょう。

日米修好通商条約より、日本は列強との本格的な通商関係に入りましたが、幕府の独断による条約調印は、朝廷や尊王攘夷派から激しい批判を浴び、波乱の幕開けとなりました。

余談ですが、1859年から横浜・長崎・函館で貿易が始まりましたが、一番の貿易国はイギリスでした。

アメリカは南北戦争が勃発し、日本との貿易どころではなくなったからです。

主な輸入品は絹織物・綿織物で、輸出品は生糸でした。

将軍継嗣問題

井伊直弼が日米修好通商条約に調印している同時期に将軍継嗣問題(けいしもんだい)が起きていました。

13代将軍徳川家定(下の写真)は病弱であり、子供に恵まれなかった為、次の将軍を誰にするかで揉めていたのです。

〈画像:Wikimedia Commons〉

次の将軍の候補は、二人に絞られていました。

一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)

〈画像:Wikimedia Commons〉

水戸藩の徳川斉昭の七男。

聡明で幼い頃から学問にも優れており、大きな期待から第12代将軍・徳川家慶(下の写真)から「慶」の字を貰っています。

〈画像:Wikimedia Commons〉

開明的な思想をもっていた 幕府改革を進めようとする「一橋派」が支持しました。

支持者たち:越前の松平慶永、薩摩の島津斉彬、土佐の山内容堂など有力大名、さらに朝廷や尊王攘夷派の公家など

徳川慶福(よしとみ)※のちの徳川家茂

〈画像:Wikimedia Commons〉

紀伊藩主であり、将軍家に近い血筋で、伝統を重んじる「南紀派」が支持していました。

支持者たち:井伊直弼ら譜代大名

非常に揉めた将軍継嗣問題ですが、井伊直弼によって、半ば強引に決着する事になります。

井伊直弼が大老に就任すると、徳川慶福を第14代将軍・徳川家茂とし、無理やり解決しました。

安政の大獄と桜田門外の変

井伊直弼は文武両道で茶道にも通じ、彦根藩は譜代大名の藩なので、大老にうってつけの人物でした。

井伊直弼は大老就任後、徳川慶福(家茂)を14代将軍に決定し、さらに日米修好通商条約の無勅許での調印をしました。

非常に多くの反感を買いましたが、幕府の権威を維持する為、井伊直弼の政策に反対した公家や一橋派の大名、攘夷派の志士たちを次々と処罰しました。

これを時の年号を取って、「安政の大獄(あんせいのたいごく)」と言います。

安政の大獄では、100人以上が弾圧されました。

しかし当然反発も大きく、1860年には水戸浪士によって井伊直弼が桜田門で暗殺される、桜田門外の変(下の写真)が発生しました。

〈画像:Wikimedia Commons〉

大老が暗殺される全体未聞の事態に幕府は混乱し、幕府を纏められる人物は、最早存在しなくなってしまいました。

こうして使えない幕府よりも天皇を中心に国を作り直そうとする尊王と、外国人を排除しようと考える攘夷の考えが結び付き、尊皇攘夷の考えが浸透していきました。

これに対し幕府は権威を取り戻すべく「公武合体」の政策を打ち出していくことになります。

最後に

お疲れ様!

日米修好通商条約と将軍継嗣問題を解説しました。

江戸時代の終わりの始まりとも言われる桜田門外の変が発生し、武力だけが物を言う混沌とした時代へと突入していくことになります。

次回は各藩の攘夷の決行と公武合体政策を見ていきます。

それでは次の授業で~

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