皆さんこんにちは、パルです!
今回は徳川綱吉の治世について解説していきます。
動物愛護が行き過ぎてしまったこの命令がなぜ出されたのかが分かると、綱吉の人柄が見えてきます。
動物大好きな方は必見です。
徳川家光の死後(大半が高校の内容ですが、文治政治は覚えてね)

家光の死後、将軍職は息子である徳川家綱(いえつな)が継ぎ、第4代将軍となります。
家綱は僅か10歳で将軍に就任したため、実際の政治は老中や大老といった重臣達が行いました。
家綱の時代からは「文治政治(ぶんちせいじ)」と呼ばれ、武力による支配ではなく、法律や制度によって政治を行おうとする姿勢が強まりました。
特に老中の保科正之(ほしなまさゆき)は、会津藩主でもありながら家綱を補佐し、寛容で安定した政治を目指しました。
以下ではなぜ、文治政治への移行したのかを解説します。
家光までは武断政治とは武力や命令によって、支配するやり方が主流でした。
従わない大名は改易と言って、領地没収の刑になりました。
大名が領地没収になると、大名に仕えていた多くの人々も突然無職になり、浪人になります。(浪人は無色で仕事が無い人)
こうして幕府に不満が高まっていき、1651年に由井正雪(下の写真)の乱が発生します。

由井正雪の乱は、浪人が起こした幕府への反乱でした。
詳しい内容は高校で習いますが、ここで大事な事は浪人の増加が、実際に反乱に繋がってしまったという事です。
由井正雪の乱は鎮圧しましたが、次回はもっと大きな反乱になるかもしれないと考えた幕府は方針を転換し、武断政治から文治政治に移行しました。
徳川綱吉の登場

徳川綱吉(上の写真)は徳川家光の四男として生まれました。
母・桂昌院は側室だった為、当初は将軍候補ではありませんでしたが、兄の綱吉が子に恵まれなかったので、綱吉に将軍の座が巡ってきました。(当時35歳)
幼い頃から学問を好み、特に儒学(朱子学)を深く学んだと言われています。
儒学では命を大切にする教えがあり、綱吉はその教えに従って命を軽んじる雰囲気を消し去り、仁や徳を重んじる政策を実行しました。
綱吉の治世の前半では元禄文化が花開きました。
生類憐みの令
綱吉の行動がおかしくなったのは、1683年に息子である徳松が、5歳でこの世を去ってからです。
これ機に後継者問題が浮上しました。
ここで母の桂昌院がお坊さんに占いに行ったのですが、その結果が綱吉を変えてしまいます。
占いは、綱吉が前世で動物を殺している、子に恵まれたいのなら動物を大事にしろ、特に犬を大事に、という結果でした。
動物を大事にする一心で、綱吉が出した法令が、生類憐みの令です。
鷹の献上禁止や捨て子の禁止、病気になった動物を捨てるの禁止など、命に関わる事は次々と禁止になりました。
その中でも犬への保護は手厚く、四谷や中野などに保護する施設が作られ、その数は10万匹を超えていました。
施設を維持する経費は120億円かかったと言われています。
反対する者が多く居ましたが、悉く処刑したり島流しにし、反対意見を封殺しました。
生類憐みの令が出されてから20年以上経ち、綱吉は病気でこの世を去りました。(享年64)
綱吉は遺言として生類憐みの令を出し続けろと言っていましたが、次の将軍に治世になると、即刻撤回されました。
新井白石と正徳の治
徳川綱吉が亡くなり後継者問題が浮上しました。
綱吉の兄は既に亡くなっていましたが、その息子は生きていました。

その息子こそ第6代将軍・徳川家宣(上の写真)です。
そして徳川家宣を幼い頃から教育していたのが、新井白石(下の写真)でした。

家宣も白石も勉強好きだったので、気が合ったようです。
徳川家宣と新井白石と間部詮房という人物で政治を動かしていた時期を、時の年号を取って、正徳の治と言います。
〈正徳の治の内容〉
- 朝鮮通信使の待遇変更
- 金銀の貨幣改鋳(財政改革)
- 閑院宮家創立
- 琉球の慶賀使・謝恩使
中学生は上に書いた2つの内容を抑えましょう。
朝鮮通信使の待遇(おもてなし)を簡素化する事により、将軍の権威を見せつける・お金を浮かせる2つ狙いがありました。
また朝鮮からの国書を「日本国大君」から「日本国王」に変更させました。
言葉の意味の違いなので細かいですが、日本国王にすることで朝鮮よりも格が上だと、国内外に知らしめる目的がありました。
金銀の貨幣改鋳に関してですが、綱吉の時代に小判の金の含有量を下げた為、インフレ(物価が上昇)が発生していました。(金の含有量を下げたのは、日本の金山で金の採掘が殆ど出来なくなっていたから)
新井白石は貨幣に含まれる金銀の含有量を、綱吉以前に戻す事により、経済の混乱を抑えようとしました。(代わりに貿易を制限することで、海外への流出を抑えた)
様々な政策を実行してきた新井白石ですが、失脚の時を迎えます。
理由は将軍が死んでしまったからです。
家宣は将軍になったのが48歳で高齢だったので、在職期間3年で死んでしまいました。
家宣の息子が3歳にして、第8代将軍・徳川家継(下の写真)となりますが、僅か8歳にして死んでしまいます。

こうして家光から続いていた血筋は家継で途絶えてしまい、後ろ盾を失った新井白石は失脚しました。
最後に
お疲れ様!
今回は徳川綱吉と生類憐みの令について解説しました。
今回はボリューム多めだったので、復習を厚くしましょう。
新井白石も老中ではないですが、非常に有名な人物なので、調べてみると面白いエピソードが沢山出てきます。
次回は、元禄文化ついて解説します!
それでは次の授業で~