【10分で分かる】大坂の陣について分かりやすく解説

江戸時代

皆さんこんにちは、パルです!

今回は戦国最後の戦い、大坂の陣ついて解説します!

徳川家康の最後の仕事ともいえる大阪の陣を、写真と共に見ていきましょう。

作者は大坂の陣が大好きなので、話長めになってもご了承ください!

そもそも大坂の陣とは?

大坂の陣(おおさかのじん)は、江戸時代初期の1614年と1615年に、徳川家康(上の写真)と豊臣家の間で行われた2度の大きな戦いのことです。

正式には「大坂冬の陣」と「大坂夏の陣」と呼ばれています。

この戦いによって豊臣家が滅び、日本全国が徳川家による支配体制に、完全に組み込まれることになりました。

1600年の関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利し、1603年には征夷大将軍となって江戸幕府を開きました。

しかし関ヶ原で敗れた豊臣家は完全には滅びず、秀吉の子・豊臣秀頼(下の写真)が大坂城に残っていました。

秀頼は戦の時まだ幼く、政治の実権はありませんでしたが、成長するにつれて多くの武将や公家が「まだ豊臣家が政権を取り戻せるのではないか」と考えるようになります。

豊臣家に古くから恩のある武将や、関ヶ原の戦いに敗れ徳川家を憎んでいる「浪人」という人々にとって、豊臣秀頼は最後の希望であり、家康にとっては「最後の脅威」となり得る存在でした。

家康はこの時には既に将軍職を子の秀忠に譲って隠居していましたが、政治の実権は握り続けており、豊臣家を完全に排除しようと考えていました。

そこで起こった事件が方広寺鐘銘事件(ほうこうじ しょうめいじけん)です。

詳しい内容は高校で習うので、以下は流し読みしてください。

〈方広寺鐘銘事件の概要〉

・方広寺とは

方広寺は豊臣秀吉が生前に建立した京都の大仏殿で、1596年の地震で倒壊してしまいました。

刀狩もこの大仏を造る為に行ったと言われています。

秀吉の子・豊臣秀頼は、父の遺志を継ぐ形でこの大仏殿を再建し、1614年には新しい鐘(梵鐘)を鋳造します。(鐘は大晦日から元旦にかけて鳴らしにいくやつ)

高さは4メートル以上もある立派なもので、方広寺に設置される予定でした。

・問題となった「鐘の文字」

この梵鐘には、当時よくある仏教的な願いの文章(銘文)が刻まれていました。

ところが、徳川家康はその中の一部の言葉を「不敬(ふけい)=自分を侮辱している」として問題視します。

特に家康が問題にしたのは、以下の部分です:

「国家安康(こっかあんこう)、君臣豊楽(くんしんほうらく)」

このうち「国家安康」の文字が「家康」の名前を2つに分断している(家と康の間に別の字を入れている)ことから、「徳川家康の名前を分断して呪っているのではないか」と因縁をつけたのです。

さらに「君臣豊楽」は、「豊と臣が隣り合って、共に楽しむ」=豊臣家が反映するという意味に取れ、「徳川幕府に対抗する意志があるのでは」ともされました。

つまり要約すると家康が難癖を付けてきたという事です。

豊臣家は徳川家の仕打ちに腹を立て、家康打倒の兵を集め始めます。

この情報を聞きつけた家康は、すぐに戦の準備を始めます。

こうして始まったのが「大坂の陣」です。

第一回戦・大坂冬の陣(1614年)

家康は豊臣家が諸大名を味方に付けようとしているという名目で、軍を動かします。

大坂城には約10万人の兵士が集まり、防御体制が固められていました。

これに対し、徳川家康と息子の秀忠は約20万人の大軍を動かして、大坂城を包囲します。

この戦いでは、大きな決戦は起こらず、激しい砲撃戦や小競り合いが続きましたが、なかなか勝負はつきませんでした。

戦いの最中に、家康側の放った大砲が大阪城の天守閣に命中し、秀頼の母である淀殿(よどどの)に仕える人が即死し、豊臣側が講和交渉に応じます。

結果として、大坂城の外堀を埋め、内堀も一部壊すという条件で一時的な停戦が成立し、大坂城はめちゃくちゃ弱体化しました。

これは家康の策略で、堀を失った大坂城は次回の戦いで落とせると思っての交渉でした。

大坂冬の陣の戦後処理

豊臣家の浪人たちが、勝手に城の堀を普及しているという噂を聞きつけた徳川家は、豊臣家に2つの要求を突きつけます。それは豊臣家の移封と浪人の解雇です。

豊臣家の移封

大坂城を退去して大和国か伊勢国に移れという要求でしたが、豊臣家の繁栄の象徴ともいえる大坂城を簡単に離れる訳にはいきませんでした。

浪人の解雇

豊臣家の戦力の大半を担う浪人でしたが、浪人にとって大坂の陣は敗者復活戦であり、家康を倒せばまた大きな権力を握れると考えているので、豊臣家がコントロールできない状態にあり、この要求も聞けませんでした。

豊臣家は要求を呑まないとして、家康は直ちに戦を開始します。

こうして大坂の冬の陣の4か月後に始まったのが、戦国最後の戦い・大坂夏の陣です。

第二回戦・大坂夏の陣(1615年)

豊臣方・5万5000人、徳川方15万5000人が参加した大坂夏の陣ですが、僅か2日間の戦闘でした。

大坂城の堀は埋め立てられてしまっているので、籠城しても勝ち目がない豊臣方は、平地で徳川方と決戦します。

豊臣方の武将は命がけで奮戦しましたが、圧倒的兵力差の前にねじ伏せられ、壊滅します。

ついに大坂城に兵士がなだれ込み、火をつけられて大坂城は炎上します。

齢23歳の豊臣秀頼と母の淀殿は自害し、豊臣家は滅亡、戦国最後の戦いは終結しました。

その後家康は京都に向かい、豊臣方に味方した公家などのまとめて処罰しました。

また武家諸法度を発布し、戦国時代の終わりと新しい身分秩序を作り上げ、一国一城令を大名達に発令し、戦力を増やすことが出来ないように制限を掛けました。

大坂冬の陣の翌年、豊臣家を滅ぼしてまるで思い残すことは無いと伝えるように、家康は75歳の人生に幕を閉じました。

最後に

お疲れ様!

大坂の陣はどうだったかな?

多くの武将が参加した大坂の陣は、儚いエピソードが沢山あるので、機会があれば解説しようと思います!

次回は生まれながらの将軍・徳川家光頃の政策について解説します。

それでは次の授業で~

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