皆さんこんにちは!
今回は奈良時代の「元明天皇」〜「聖武天皇」までを詳しく解説します!。
奈良時代は約80年と短い期間で幕を閉じましたが、後世に与えた影響は相当なものです。
この記事では複雑になりがちな奈良時代前半の出来事を、「流れ」で整理して理解できるように纏めました。
↓前の時代を復習したい方は、こちらをご覧ください!!↓
元明天皇:奈良時代の始まり
〈710年 平城京 遷都〉
奈良時代は「元明天皇」が「藤原京」から「平城京」に遷都した事で始まりました。

〈元明天皇:Wikimedia Commons〉
政権担当者は「藤原不比等(中臣鎌足の息子)」です。

〈藤原不比等:Wikimedia Commons〉
遣唐使で唐に勉強に赴き、沢山の知識を吸収した中での遷都でした。
平城京に遷都した理由は、以下の通りです。
1. 中国・唐の都(長安)をモデルにしたい

〈平城京:Wikimedia Commons〉
右と左が逆な理由は、天皇が平城宮から平城京全体を見た時に、逆になるからです。
当時の日本は「律令国家」を目指していて、唐の制度を真似ていました。
唐の都・長安のような 整った条坊制の都城 を作る事で、国の中心を立派に見せ国際的にアピールする狙いもありました。
2. 政治の安定と新しい都の必要性
藤原京は天武系の血筋の都だったため、政治的に色が付いていました。
新しい場所に遷都する事で、政治的に中立な都を作りたかったのです。
3. 宗教的な要因
当時は「天武天皇系の血統争い」や「怨霊のたたり」への不安が強い時代でした。
天皇が亡くなるとその都は「穢れがある」とされ、遷都するのが一般的な価値観でした。
4. 地理的・経済的な利便性
奈良盆地の北部に位置する平城京は、交通の要所で物資が集まりやすい場所でした。
大阪湾から物資を運び込める便利な立地でもあるため、都市向きでした。
〈711年 蓄銭叙位令(ちくせんじょいれい)〉
内容
「銭を蓄えた量に応じて位階(官位)を与える」法令です。
「人々に貨幣を貯めさせ、使わせる動機づけ」が目的でした。
唐では既に貨幣経済が浸透しており、日本も真似る為に出されました。
結果
農村では相変わらず物々交換が主流で、貨幣経済は都市部や一部の層にしか定着しませんでした。
物々交換が主流だった時代にわざわざ貨幣を使う意義を、人々は見出さなったようです。
元正天皇:母から娘への皇位継承
〈723年 三世一身の法〉
政権担当者は「長屋王」という皇族出身の人物です。

〈長屋王:Wikimedia Commons〉
720年に藤原不比等は死没しました。
個人的な感想ですが、長屋王はそこまで政治は得意では無い印象です。
その理由が三世一身の法です
狙い
奈良時代は人口増加・口分田不足が問題になっていました。
農民には口分田を国から支給していたので、その土地対策としての法令です。
「自分の土地になるなら頑張ろう!」と農民に思わせ、開墾を促す為に三代(自分・子・孫)に限り新しく開墾した土地の所有を認めました。
結果
「いずれ国に返さないといけない」と考え、農民はあまり積極的に開墾しませんでした。
開墾したとしても、孫の代になると放棄するケースが続出しました。
聖武天皇:彷徨う天皇
〈724年 聖武天皇 即位〉
「聖武天皇」のお父さんは、「文武天皇」です。

〈文武天皇:Wikimedia Commons〉
文武天皇が亡くなった時、息子である聖武天皇はまだ幼少だった為、「元明天皇」と「元正天皇」が中継ぎの天皇として即位していました。
724年に「聖武天皇」が即位し、25年間に渡り皇位に就きます。

〈聖武天皇:Wikimedia Commons〉
〈729年 長屋王の変〉
藤原不比等の4人の息子である「藤原武智麻呂」、「藤原房前」、「藤原宇合」、「藤原麻呂」が首謀者です。(4人の息子を、藤原四子と言います)
「聖武天皇」に、「長屋王が謀反を起こそうとしている」と讒言し、自害に追い込みました。
加えて聖武天皇の奥さんに「光明子」という藤原の血筋の人間を推薦し、皇后にする事に成功しました。

〈光明子:Wikimedia Commons〉
ここから長い藤原の時代が来ると誰もが思いましたが、そうはなりませんでした。
737年、「天然痘」という病気が大流行し、藤原四子を含め多くの人々が亡くなりました。
「藤原四子」が亡くなり、代わりの政権担当者は「橘諸兄」です。

〈橘諸兄:Wikimedia Commons〉
聖武天皇は「吉備真備(きびのまきび)」・「玄昉(げんぼう)」といった仏教系の学者・僧侶を登用し、国政の安定を目指しました。
〈740年 藤原広嗣の乱〉

〈藤原広嗣:Wikimedia Commons〉
背景
下で詳しく記述していますが、聖武天皇の時代は天然痘流行・飢饉・地震などで不安定でした。
政治では、吉備真備(きびのまきび)・玄昉(げんぼう)といった仏教系の学者・僧侶が台頭しています。
これに不満を持った藤原広嗣が、「吉備真備・玄昉を排除しろ!」と上奏したが聞き入れられず、挙兵しました。
結果
朝廷軍に鎮圧され、「藤原広嗣」は敗死しました。
聖武天皇は動揺して都を転々とするようになります。(平城京→恭仁京 → 難波宮 → 紫香楽宮→平城京)
なぜ都を転々としたのか詳しい理由は分かっていませんが、彼が即位してから国内が荒れに荒れていたので、周りから陰口などを言われて病んでしまったのかもしれません。
この都転々時期に、聖武天皇は仏像や大仏の荘厳さに目覚めます。
国家安泰を願って、東大寺の大仏造立を発願する流れに繋がるのです。
〈741年 国分寺建立の詔〉
聖武天皇は何とかして国を安定させるべく、当時国として進んでいた唐(中国)で流行っていた仏教の力で国を守る事を決めました。
仏教で国を守る考え方を、鎮護国家思想と言います。
仏教を国に広める為各地に、「国分寺」と「国分尼寺(女専用)」を建てさせました。
〈743年 墾田永年私財法〉
「三世一身法」が失敗した理由として、死後に国に返却するという決まりがありました。
そこで朝廷は自分で開拓した土地に関しては、自分の土地にして良いという法律を作る事で、農民のモチベーションを上げる政策を打ち出しました。
それが「墾田永年私財法」です。
私有地をを認めるのは公地公民が崩壊しデメリットしかない様に思うかもしれませんが、収穫高の一部を税金として納めさせるので、財源の確保が見込めるのです。
位階によって所有できる面積の制限はありますが、永久の所有を認めた法令です。
背景
浮浪・逃亡農民が増加し、国の税収が安定していませんでした。
最早この法令が出されるのは、当然の事だったのかもしれません。
結果
皆こぞって開墾を開始しました。
この法律によって権力のあるお寺や貴族達は、土地を開拓しまくって多くの土地を私有地化していきます。
これが平安時代の「荘園」に繋がっていくので、覚えておきましょう!
〈743年 大仏建立の詔〉
聖武天皇が紫香楽宮に居た時に発せられました。
この当時から力を持ち始めていたのが「藤原仲麻呂」です。
力を持ち始めた理由は「大仏推進派だから」です。
「橘諸兄」は民衆に負担をかけすぎているのを懸念し、度重なる遷都や大仏建立に反対していたのです。
大仏を建立に賛成した「藤原仲麻呂」は「聖武天皇」の心を掴んだのです。
「墾田永年私財法」で財源の目途が立ったので、満を持して「平城京」に東大寺と大仏を建てるよう命じました。


平城京に大仏を造る時に民衆の理解を得る為、積極的に活動した人こそ、「行基」と言う人物です。

〈行基:Wikimedia Commons〉
でも実際に建築するのは勿論農民で、過酷な作業や病気が流行って命を落とす人が多いのが現実です。
加えて、農民は飛鳥時代に制定された税金(租・調・庸)も納めなければならず、厳しい生活を強いられました。
そこで農民は生きていく為に、様々な手段で対抗しました。
手段1:逃亡
国から与えられた田んぼ(口分田)を放棄して、山などに逃げた農民の事を、浮浪農民や逃亡農民と言います。
しかし、朝廷(政治を行っている組織)の役人に見つかると厳しい罰則があったので、別の手段を取った農民もいます。
それが第2の手段、「出家」です。
〈手段2:出家〉
出家とは仏教の道に進みお坊さんになる事で、聖武天皇が推し進めた仏教が、実はここで足枷になります。
農民が出家した理由は「税金が免除されるから」です。
マニアックな話ですが、仏教の考え方では「前世」・「現世」・「来世」に分かれていて、現在我々が生きている世界は「現世」で、出家した人は「来世」扱いになります。
税金を課す事が出来るのは「現世」だけと決めているので、この考え方利用して、仏教を全く勉強していない農民ですら、出家する人が続出しました。
この状況に困った聖武天皇も黙っていません。
〈753年 鑑真 来日〉
仏教の本場の唐(中国)から招集したのが、「鑑真」です。

〈鑑真:Wikimedia Commons〉
鑑真は戒律(お坊さんになる為のルールブック)を日本に伝え、一切勉強していない農民がお坊さんになるのを阻止する為に活動した人でした。
様々な苦難を乗り越え、752年には「大仏開眼供養」が行われ、大仏に目が描かれ完成しました。
補足:聖武天皇が仏教に助けを求めた理由
奈良時代の大きな流れを確認しましたが、ここでは前の章の知識の補充をしていきます。
奈良時代で成立した書物に、「古事記」(下の写真)という書物があります。

〈画像:Wikimedia Commons〉
この書物は日本の成り立ちから、飛鳥時代の始まりである「推古天皇」までの歴史が記されています。

〈推古天皇:Wikimedia Commons〉
天皇家は神様の子孫という設定になっているので、聖武天皇は天災が起きた時に、神様にお願い出来ませんでした。(自分が実質神様っていう設定だから)
故に新しい文化である仏様に頼ったっていう経緯があります。
奈良時代の重要書物として、「日本書紀」(下の写真は第一巻)、「風土記」、「万葉集」があるから、ここも要チェックです!!

〈日本書紀:Wikimedia Commons〉
受験生の方へ
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