皆さんこんにちは、パルです!
今回は朝鮮出兵と豊臣秀吉の死を解説していきます。
朝鮮出兵は豊臣秀吉が天下を取った直後に行われた、国外との戦争です。
日本が朝鮮半島を舞台に戦ったのは、663年の白村江の戦い以降、実に1000年ぶりです。
現在に遺恨を残す結果となった戦いを、詳しく見ていきます!
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朝鮮出兵とは
朝鮮出兵とは、朝鮮半島へ軍を派遣した二度にわたる戦争の総称です。
- 文禄の役(1592~1593年)
- 慶長の役(1597~1598年)
この二つを合わせて「文禄・慶長の役」とも呼ばれます。
天下統一を成し遂げた「豊臣秀吉」は、その次の目標として「明(中国)の征服」を構想しました。

〈豊臣秀吉:Wikimedia Commons〉
そしてその進軍経路にあたる李氏朝鮮に対し、服属と協力を求めます。
しかし朝鮮側がこれを拒否したことで、武力による侵攻へと発展しました。
1598年に秀吉が死去したことで日本軍は撤退し、戦争は終結します。
しかしこの戦争は、後の日本・朝鮮に大きな影響を与えることになりました。
なぜ朝鮮出兵を計画したのか?
1590年に「豊臣秀吉」は54歳にして、遂に天下統一を果たしました。
休む暇もなく、次は「明(中国)」に目を向けます。
「豊臣秀吉」が海外に目を向けた理由は分かっていませんが、いくつか説を挙げます。
①武士に仕事を与える為
天下統一を成し遂げると、1つ問題が出てきます。
全国から争いが無くなると、武士は戦う相手がいなくなって暇になります。
全国の武士は秀吉に好きで服従している訳ではない為、暇になると不満を持って反乱を起こすかもしれません。
そこで「豊臣秀吉」は自分への不満を解消する為に、武士達の力を外に向けた言われています。
②自分の力を世界に見せつけたかった
「豊臣秀吉」は農民出身で身分が低かったにも関わらず、天下を取った人です。
「自分の凄さを、もっと広く世界に知らしめたい」、「中国(明)を征服すれば、日本はもっと強くなれる」、そんな思いもあったと考えられています。
秀吉は明を征服して、世界の覇者を目指したのかもしれません。
朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)の詳細
〈1592年 文禄の役〉
下の地図は現在のものです。

〈画像:Wikimedia Commons〉
中国に侵略しに行く為には、まず朝鮮半島を通る必要があります。
朝鮮は単なる通り道ですが、完全に巻き添えを食らいました。
まずは朝鮮に対して、日本に服属するように手紙を送ります。
朝鮮は明の属国なので、当然「豊臣秀吉」の要求を拒否します。
その報復として、朝鮮に出兵する事が決定します。
戦の拠点として、佐賀県に「名護屋城」を建設しました。(名古屋城とは別です!!)

〈肥前名護屋城図屏風:Wikimedia Commons〉
「名護屋城」は「大坂城」の次に大きい巨大な城だったそうです。
15万人の兵を動員した「文禄の役」の始まりです。

〈文禄の役:Wikimedia Commons〉
「文禄の役」の先陣を切ったのは「小西行長」と「加藤清正」です。

〈小西行長:Wikimedia Commons〉

〈加藤清正:Wikimedia Commons〉
文禄の役は最初、圧倒的日本軍有利で進みます。
戦いに慣れている日本の武士は、次々に朝鮮の城を落としていきます。
しかし戦線を伸ばしすぎて、日本からの補給が段々と間に合わなくなってきました。
朝鮮側も「李舜臣(りしゅんしん)」率いる朝鮮水軍の激しい抵抗によって、徐々に戦況は悪化します。

〈李舜臣:Wikimedia Commons〉
「李舜臣」は「亀甲船」を考案し、日本の補給路の分断に成功しました。

〈亀甲船:Wikimedia Commons〉
戦争継続が困難になり、前線の武将は「豊臣秀吉」に内緒で講和交渉を始めます。
一時休戦となり、日本軍は撤兵しました。
〈講和交渉の内容〉
講和交渉の内容が、非常に重要です。
講和交渉に臨んだのは「小西行長」で、戦争を一刻も早く止めようと考えている人物です。
朝鮮側の代表の「沈惟敬(ちんいけい)」も、これ以上意味の無い戦いはやめようと考えていました。
2人は何とか戦を終わらせる為に、「沈惟敬」は明の皇帝に、「日本側が降伏した」と伝えました。
一方「小西行長」は「豊臣秀吉」に、「明側が降伏しました」と伝えました。
こんな嘘を付いても長続きする訳がありませんが、それほど朝鮮出兵は不毛な戦いだったのかもしれません。
結局「豊臣秀吉」にバレてしまい、「小西行長」はメチャクチャ怒られました。
〈1597年 慶長の役〉
講和交渉の真相を知り「豊臣秀吉」は激怒、再出兵の命令が出ました。
「慶長の役」の勃発です。

〈慶長の役:Wikimedia Commons〉
「文禄の役」から日本軍は学んでいました。
「文禄の役」では戦線を伸ばし過ぎたのが原因で、補給路を分断されました。
「慶長の役」では土地を占領し城の築城をする事で、拠点の確保を優先したのです。
しかし朝鮮側も攻撃を仕掛けてくるので、不安定な戦況が続きました。
敵将を打ち取った武士達は褒美をもらう為に、相手の首を持って帰らなければいけません。
しかし船に沢山の首を乗せる事は厳しいです。
そこで討ち取った敵の「耳」を切り、日本に持って帰ってきました。
その耳が収められているのが、京都の方広寺の近くにある「耳塚」です。

〈耳塚:Wikimedia Commons〉
〈1598年 豊臣秀吉 死去〉
「豊臣秀吉」が病気で亡くなったことで、特に戦果も無いまま撤退しました。
この戦いによって多くの命が失われ、朝鮮や日本の双方に大きな被害をもたらしました。
朝鮮人は現在も、朝鮮出兵を理由に日本を嫌っている人も多く居ます。
江戸幕府が国交を回復するまで、朝鮮との国交は断絶しました。
朝鮮では「文禄の役・慶長の役」を「壬辰・丁酉の倭乱(じんしん・ていゆうのわらん)」と呼んでいます。
「壬辰」が29番に、「丁酉」が34番にあります。

「文禄の役」から「慶長の役」まで5年期間が空いているので、計算が合いますね。
当時は「干支」が60個あったので、新しく出てきたら確認するようにしましょう!
朝鮮出兵の影響
戦いの成果は特にありませんでしたが、アジアの情勢には大きな影響を残しました。
日本・朝鮮・明の順番に確認していきます。
① 日本への影響
西国大名の疲弊
武器や兵糧、人的資源は各大名の自己負担でした。
加えて、朝鮮半島は九州に近いので、必然的に西国の大名を中心に動員されました。
意味のない戦いに大きな出費と多くの犠牲を払い、西国の大名は弱体化しました。
豊臣家内部の対立激化
豊臣家の家臣団が分裂し、派閥争いは苛烈化しました。
意外と知られていないですが、後の流れを理解する上で非常に重要なポイントです。
戦争は基本的に、現地で戦う人と本陣で指揮する人に分かれます。
「豊臣七将」を中心とする現場の人と、本陣で指揮を執る武将の間で喧嘩になりました。
本陣で指揮を執る武将の批判の的になったのが、「石田三成」です。

〈石田三成:Wikimedia Commons〉
刻一刻と変わる戦況に対し、何も分かっていない「石田三成」が命令してくるのに、「豊臣七将」は嫌気が差していたのです。
「豊臣七将」に歩み寄ったのが「徳川家康」です。
豊臣家の内部分裂が、関ヶ原の戦いへと波及する事になります。
② 朝鮮への影響
財政悪化・食糧不足
朝鮮半島は戦場となり、国土が荒廃し財政が傾きます。
戦中の兵糧が明国軍の分として徴用されたため、食糧不足などの問題も生じました。
多くの者が戦いの最中に命を落とし、捕虜となる者・生きていけなくなった者も大勢発生しました。
対日感情の悪化
「豊臣秀吉」の私利私欲で攻め込んだので、朝鮮の対日感情は当然悪化しました。
この感情の悪化は、現在の日本との関係のルーツとも言われています。
韓国では朝鮮出兵において、日本軍が残虐な行為をしたと教えられているようです。
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