【10分で分かる】本能寺の変はなぜ起こったのか?

戦国時代

皆さんこんにちは、パルです!

今回は本能寺の変から豊臣秀吉の天下統一までを解説していきます。

応仁の乱から始まった戦国時代も終盤に差し掛かりました。

まだまだ出てくる戦国武将を、写真と共に覚えていきましょう!

戦後時代で活躍している武将を復習したい方は、こちらをご覧ください!

本能寺の変

〈画像:Wikimedia Commons〉

前回の復習ですが、織田信長(上の写真)は室町幕府を滅亡させ、浅井・朝倉・武田氏も滅亡させ、天下統一に王手を掛けていました。

〈画像:Wikimedia Commons〉

しかし1582年、家臣の明智光秀(上の写真)が突然、京都の本能寺(下の写真)にいた織田信長を襲撃しました。

〈画像:Wikimedia Commons〉

これが本能寺の変です。

信長が本能寺にいた時、織田家の有力な家臣達を日本各地に派遣して全国統一に本腰を入れていた為、信長の傍にいた兵士はごく僅かでした。

当然光秀も家臣達がいない事を分かっていて、襲撃しました。

こうして信長は自害し桶狭間の戦いから始まった日本統一の夢は、道半ばで終わってしまいました。

では、なぜ光秀は信長を裏切ったのか。その理由ははっきりとは分かっていません。

ここでは有名な説をいくつか取り挙げます。

個人的な恨み

これは一番よく知られている説です。

  • 信長は性格がキツく、部下に対してもとても厳しかったことで有名です。
  • 光秀も信長から人前で何度も怒られたり、土地(丹波)を取り上げられたと言われています。

個人的な恨みが積もり積もって、「こんな主君にはついていけない」と怒りが爆発した、という説です。

ただし光秀がどれだけ強く恨んでいたのかは記録が少なく、完全には証明されていません。

野望説(自分が天下を取りたかった)

光秀は「自分が信長の後を継ぎ天下をとりたい」と考えたと言われています。

  • 信長が死ねば、日本中に大混乱が起きる。
  • その隙に自分が天下人になれるかもしれない。

実際、本能寺の変のあと光秀はすぐに行動を起こしましたが、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)にすぐに討ち取られた、野望が実現する事はありませんでした。

朝廷・幕府の関与説(政治的な背景)

天皇や朝廷、または旧幕府勢力が関係していたという説です。

  • 信長の勢力は拡大し続け、天皇や朝廷の権威を脅かす存在になっていた。
  • 朝廷や公家が光秀に「信長を止めろ」と働きかけた。

これは証拠が少なく、今のところ「可能性がある」という程度です。

四国政策の対立説(政治の方針でもめた)(筆者はこの説と①の組み合わせだと考えています。)

光秀と信長は、四国をめぐる考え方の違いで対立していたという説です。

  • 光秀は四国の大名・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)と仲が良く、信長と長曾我部の懸け橋になり関係も良好だった。
  • でも、信長は「四国を力で制圧せよ」と方針転換(結構急な方針転換だったと言われている)。

信長の急な方針転換は、光秀の面目を潰しました。

当然光秀は長曾我部氏と気まずくなりますし、この外交の失敗によって、世間からの見る目が冷たかったと言われています。

織田信長は本能寺を襲撃された時、家臣に「誰の襲撃だ」と尋ねました。

家臣が「明智の軍です」と答えると、信長は「是非に及ばず(仕方がない)」と呟いたそうです。

これは私個人の推測ですが、仕方がないと答えたという事は、信長は明智光秀に謀反を起こされる心当たりがあったという事だと思います。

信長の急進的なやり方に、光秀はどこかで不満を募らせていたのかもしれませんね。

山崎の戦いと3日天下

〈画像:Wikimedia Commons〉

本能寺の変の知らせを受けて、すぐに動いたのが信長の家臣である羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)(上の写真)です。

秀吉は中国地方(岡山県あたり)で毛利氏と戦をしていましたが、すぐに京都に軍を引き返し(中国大返しと言う)、山崎の戦いで光秀を破りました。

信長を本能寺の変で暗殺してから、山崎の戦いで敗れる期間に光秀が天下を取っていたので、その短さを表現して、3日天下と呼ばれています(3日間天下人だった訳ではない)。

信長の仇を討ったこと、これは秀吉が信長の後継者として名乗りを上げるには、十分過ぎる功績でした。

〈画像:Wikimedia Commons〉

その後信長の後継者を決める為に、清州城(上の写真公式ホームページより)清洲会議が開かれました。

秀吉は徐々に他の有力な家臣達を抑え、信長の後継者としての地位を固めました。

天下統一の総仕上げ

清須会議の後、秀吉は各地の大名を従わせる為に戦いを仕掛けます。

〈画像:Wikimedia Commons〉

小牧・長久手の戦い(上の写真)で徳川家康と争った後、徳川家を服属させ、1585年・四国征伐で長宗我部氏を、1587年・九州征伐で島津氏(下の写真は島津家当主・島津義久)を服属させました。

〈画像:Wikimedia Commons〉

1590年・小田原征伐で北条氏を滅ぼし、東北地方の伊達氏を服属させ、全国統一を成し遂げました。

そして、後陽成天皇から「関白」を与えられ、武士の世界でも公家の世界でも、名実ともに天下人となります。

秀吉は戦争と並行して、身分秩序を整えます。

①刀狩令

秀吉が全国を治める中で、一番恐れていたのが「農民の反乱」でした。

農民が武器を持つと、また大規模な戦争に発展すると考えたのです。

そこで、1588年に出したのが「刀狩令」です。

これは、農民から刀や槍などの武器を取り上げる命令でした。

武器を持つことが出来るのは武士だけにすることで、武士と農民の区別を明確にしました。

ちなみに武器を没収するにあたり、秀吉は「刀を仏像(方広寺)の材料にして、平和な世の中を作ります」という、宗教的な理由を使って人々を納得させましたが、実際には農民の反乱を防ぐ為でした。

②太閤検地

「太閤(たいこう)」とは、関白を退いた後の秀吉の呼び名です。

秀吉は全国を治める為に、どれだけの土地と米が取れるかを正確に知らべさせました。

そこで行ったのが「太閤検地」です。これは全国の田畑の広さや収穫量を調べ、土地の持ち主や納める税金を決める大調査でした。

今まではそれぞれの国で使っている桝(米の計量をする道具)が違ったので、治める米の量もバラバラでした。

〈画像:Wikimedia Commons〉

そこで秀吉は京桝(上の写真)を基準にして、全国の土地で治める米の量を統一しました。

加えて今でいう土地台帳のようなものを作り、日本の経済の仕組みを整えました。

この検地によって、農民が耕している土地が明確に記録され、「農民は土地に縛られて耕す人」、「武士は戦う人」という役割分担が固定されていきます。

これが江戸時代の身分制度の元になったと考えられています。

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