皆さんこんにちは!
今回は「自由民権運動」の「士族民権」・「豪農民権」について解説していきます!
不平士族の反乱も全て鎮圧され、武力では明治政府に勝てない事が全国に知れ渡りました。
以降は話し合いで解決する「自由民権運動」が盛んになります。
多くの民権派が登場するので、1人ずつ覚えていきましょう!
↓不平士族の反乱の流れを知りたい方は、こちらをご覧ください!!↓
自由民権運動とは
明治6年(1873年)の政変で明治政府を辞職した「板垣退助」が、国民の意見を反映させるよう活動を始めました。

〈板垣退助:Wikimedia Commons〉
具体的な目標としては、「国会の開設」です。
国会開設に向けた一連の活動を「自由民権運動」と言います。
現状は薩摩藩・長州藩の一部の人間だけが、政治を動かしています。
板垣退助は海外留学経験があり、国会で国民たちが政治について議論するのを目の当たりにし、日本でも導入するべきだと考えていたのです。
自由民権運動の具体的な変遷として、「士族民権」→「豪農民権」→「農民民権」→「大同団結運動」です。
これから解説を始めていきますが、今どの段階にいるのかを、勉強しながら思い返すようにしてください!
士族民権(士族による自由民権運動)
〈1874年 1月 愛国公党 結成(東京)〉
「板垣退助」・「後藤象二郎」・「副島種臣」・「江藤新平」を中心に、愛国公党が結成されました。

〈後藤象二郎:Wikimedia Commons〉

〈副島種臣:Wikimedia Commons〉
征韓論敗北組を中心に「愛国公党」が結成され、政府に抗議を開始しました。
早速明治政府に向けてアクションを起こします。
〈1874年 1月 民選議院設立の建白書〉:当時の明治政府の「左院」に提出
「民選議院」と言うのは、「国会議員」を指しています。
明治政府は無知な国民が政治に参加するのを断固として拒否しているので、全く相手にしませんでした。
しかし、当時は既に新聞が流通しており、イギリス人のブラックという人物が書いた「日新真事誌」という新聞に、藩閥政治の記事が掲載されました。

〈日新真事誌:Wikimedia Commons〉
この新聞は大反響を呼び、自由民権運動が各地に知れ渡るキッカケになりました。
〈1874年 愛国公党 解体〉:自然消滅
自由民権運動が拡大するに連れて、政府からの弾圧も強まりました。
一足先に「愛国公党」を抜けた「江藤新平」が佐賀の乱で処刑されたの機に、愛国公党は解体しました。

〈江藤新平:Wikimedia Commons〉
↓佐賀の乱を解説しています、こちらもご覧ください!!↓
〈1874年 4月 立志社結成(高知)〉:板垣退助・片岡健吉
愛国公党が解体され、メンバーはそれぞれ故郷に戻りました。
地元で活動を始めた「板垣退助」と「片岡健吉」は、地元高知県で立志社を結成しました。

〈片岡健吉:Wikimedia Commons〉
立志社結成を発端として、大阪との人々の行き来の影響で、徳島では「自助社」が結成されました。
同時期に奥羽列列藩同盟の報復として、福島でも自由民権運動が活発化しました。
↓会津戦争と板垣退助之関係は戊辰戦争の記事で解説しています、意外な繋がりを解説しているので、是非確認してみて下さい!!↓
〈1875年 1月 大阪会議開催〉:大久保利通・板垣退助・木戸孝允
自由民権運動が鬱陶しい「大久保利通」は、「板垣退助」・「木戸孝允」を懐柔する事で、自由民権運動の鎮圧を図りました。
「議会・憲法を設置するから政府に戻ってきて欲しい」と2人を説得し、「参議」という役職で復帰する案を提示しました。
「木戸孝允」を政府に呼び戻したのは、明治政府内を纏める為です。
台湾出兵の件で「木戸孝允」は政府を下野しました。
しかし長州のリーダー的存在だった「木戸孝允」が居なくなると、長州の奴らが好き勝手言い始めたのです。
「大久保利通」が長州の奴らに手を焼いていたので、呼び戻したのです。
〈1875年 2月 愛国社結成(大阪)〉:板垣退助
自由民権運動が盛り上がりが見せる中、地方よりも大都市で活動した方がより多くの支持を得られると考えた板垣退助は、大阪に愛国社を結成しました。
大阪の愛国者を本部として、全国的に作られた支部を「政社」と言います。
~ここで差が付く!言葉の豆知識~
気づいた方は素晴らしいですが、江戸時代は「大坂」という表記でしたが、1871年頃に「大阪」と改められました。
理由は「坂」という字が、「土に反する(=さか)」と分解できてしまい、「反逆」「反乱」を連想させる縁起の悪い字と考えられたのです。
1871年というと戊辰戦争が終結したばかりで、西南戦争などはまだ起きていない時期です。
政府は反乱に対して、非常に神経質な時期だったのです。
〈1875年 4月 漸次立憲政体樹立の詔〉:明治天皇が発した
国民に徐々に「議会・憲法の設置」を行う意思表示を行いました。
これは板垣退助と木戸孝允が大久保利通に迫った出来事で、天皇からのお言葉を貰う事で大久保利通が行動しなければいけない状態を作り出したのです。(要は大久保利通を信用していなかったという事です)
これを機に、立法機関である「元老院」、裁判所である「大審院」を設置しました。
〈1875年 6月 讒謗律・新聞紙条例〉:政府批判に対する弾圧立法
大久保利通による「飴と鞭」の政策です。
漸次立憲政体樹立の詔が「飴」の政策で、「讒謗律・新聞紙条例」が「鞭」の政策です。
簡単に言うと、新聞紙で政府の悪口を言うのを禁止にしました。
「日新真事誌」などの新聞を未然に防止したいという意図です。
この2年後西南戦争が勃発し、士族の希望が敗北した事で、士族民権も下火になっていきました。
豪農民権(豪農による自由民権運動)
士族民権が下火になる中、今度は豪農農民達が立ち上がります。
下火になっている士族達を仲間に引き入れ、自由民権運動の再開を見せます。
豪農農民達が講義を始めたのは、1873年に出された「地租改正条例」が原因です。
地租改正で土地の「地価」の3%を、現金で治める事が決定しました。
つまり土地を沢山所有している豪農農民は多額の税金を納付していました。
なのに政治を口出し出来ない現状に、不満を持っていたという事です。
〈1877年 6月 立志社建白の提出〉:片岡健吉
国会開設名不土を含む8カ条の要求を、元老院に提出しました。
片岡健吉は土佐藩の郷士(身分が高くない武士)の生まれで、西南戦争の悲惨さを目の当たりにしました。
「人が死ぬことなく話し合える場所を作りたい」と願った彼の要望も虚しく、結局政府は相手にしませんでした。
〈1878年 4月 愛国社 再興〉
あれ?愛国社って解体してたっけ?と思った方、ご安心ください。
実は愛国社のメンバーの多くは西南戦争に参加しており、多くが命を落としました。
その為組織自体が自然消滅していました。
そこで愛国社再興大会を実施し、西南戦争の恨みも込めて、集会を開いて政府の悪口を言いまくる運動が展開されました。
〈1878年 7月 三新法 制定〉
「郡区町編成法」・「地方税規則」・「府県会規則」の三法が制定されました。
簡単に言うと地方議会の発足を認めたという事です。
「地方の事は地方で決めていいよ」という妥協案を見せる提示し、不満の解消をさせる事が狙いでした。
〈1878年 5月14日 紀尾井坂の変〉:大久保利通 暗殺
「大久保利通」が「東京府麹町区麹町紀尾井町清水谷」で、不平士族6名によって暗殺されました。
この当時は「東京都」ではなく、「東京府」と言います。
暗殺現場は、現在の清水谷公園付近だと言われています。

多方面から多くの恨みを買っていた「大久保利通」は、ここで命を落とす事になりました。
以降は内務卿に「伊藤博文」が就任し、日本を動かしていきます。

〈伊藤博文:Wikimedia Commons〉
〈1880年 3月 愛国社を国会期成同盟に改称〉
愛国社の規模が大きくなってきた為、名前を変更しました。
国会設立請願書を87000名集め、元老院に提出しましたが受理して貰えませんでした。(87000名は関ヶ原の戦いの東軍と同じくらいの人数です)
国民が国会開設に非常に意欲的である事が分かると思います。
〈1880年 4月 集会条例〉
政府は「集会・結社」の規制を強化しました。
三新法を制定し政府が国会開設を匂わせているのに、一向に自由民権派は妥協しないので、集会条例で愛国社再興大会のような悪口大会を規制しました。
ここまで政府と自由民権派の攻防を見てきましたが、翌年大事件が起こります。
〈1881年 10月 開拓使官有物払下げ事件〉:明治政府痛恨のミス
政府と政商の癒着が判明した大事件です。
薩摩藩出身の「黒田清隆」が、同じく薩摩藩出身の「五代友厚(ごだいともあつ)」に、政府の所有物を超絶割安でプレゼントするという汚職が、明るみに出ました。

〈黒田清隆:Wikimedia Commons〉

〈五代友厚:Wikimedia Commons〉
これには自由民権派の怒りが、頂点に達しました。
自分達のの意見は全く聞かないのに、薩摩藩の人だけ良い思いをしているのは許せなかったのです。
さすがにこの失態は明治政府も、どうする事も出来ませんでした。
〈1881年 10月 国会開設の勅諭〉:開拓使官有物払下げ事件を受けて
10年後の国会開設を正式に約束しました。
1875年の漸次立憲政体樹立の詔では、いつ作るかハッキリせずうやむやにされた為、自由民権派は正式な期限を設けさせる事に成功しました。
開拓使官有物払下げ事件が、自由民権運動にもたらした影響が大きすぎますね。
〈1881年 10月 明治14年の政変〉:伊藤博文が大隈重信を政府から追い出す
皆さん、1つ疑問に思いませんでしたか?
開拓使官有物払下げ事件ってなんでバレたんだろうって。
実は国会開設に関して、「伊藤博文」は時期尚早だと考えていました。
しかし「大隈重信」は即時開設を考えており、対立していました。

〈大隈重信:Wikimedia Commons〉
大隈重信が開拓使官有物払下げ事件を世間にバラし、自由民権運動を過熱させた疑いがかかり、政府を強制的に辞めさせられました。
これを明治14年の政変と言います。
〈1881年 10月 自由党 結成〉
国会開設の勅諭に伴い、日本に初めての政党が誕生しました。
中心人物は「板垣退助」、「後藤象二郎」、「植木枝盛」、「星亨(ほしとおる)」です。

〈植木枝盛:Wikimedia Commons〉

〈星亨:Wikimedia Commons〉
フランス流の考え方をしており、「主権在民」を主張しています。
一般市民が政治を動かすのが理想です。
フランス革命により一般市民が政治を動かすようになったので、日本も真似しようという方針です。
政党の近況報告をする新聞を「機関紙」と言います。
自由党の機関紙は「自由新聞」です。
〈1882年 3月 立憲帝政党 結成〉
国会開設の勅諭に伴い、こちらも結成されました。
中心人物は「福地源一郎」です。

〈福地源一郎:Wikimedia Commons〉
「立憲帝政党」は政府が結成した政党で、このような政党を「吏党(りとう)」と言います。
主に官僚が支持しており、「主権在君」を主張しています。
天皇が主権を持ち、一部の人間が積極的に政治を執る考え方です。
立憲帝政党の機関紙は「東京日日新聞(にちにちしんぶん)」です。
〈1882年 4月 立憲改新党 結成〉
国会開設の勅諭に伴い、「立憲改新党」も結成されました。
中心人物は「大隈重信」、「犬養毅」、「尾崎行雄(ゆきお)」です。

〈尾崎行雄:Wikimedia Commons〉
イギリス流の考え方をしており、「君民共治」を主張しています。
君=「国王(天皇)」、民=「一般市民」を指しています。
イギリスは古くから王様が統治していましたが、独裁ではありません。
立憲改進党はこの考え方を日本に取り入れ、天皇と一般市民が協力し合って政治を動かしていくのを理想としています。
立憲改進党の機関紙は「郵便報知新聞」です。
受験生の方へ
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[★★★]を唱える事によって救われると説いた。
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