皆さんこんにちは、パルです!
今回は二度に渡る元の襲来を解説していきます。
実際に台風が来たの?
それとも鎌倉武士が強かったの?
様々な謎が残るのが元寇です。
原稿に関しては世界史を知ってから勉強すると、これは日本終わったなと思います(笑)
日本史上最大のピンチと言われている、元寇を写真とともに解説していきます!
↓元寇以前の鎌倉時代を知りたい方は、こちらをご覧ください!!↓
元寇
そもそも「元」はモンゴル帝国の一部です。
モンゴル帝国は「チンギス・ハン」が建国しました。

〈チンギス・ハン:Wikimedia Commons〉
チンギス・ハンの孫である「フビライ・ハン」がモンゴル帝国を拡大し、1271年に「元」というモンゴル帝国の中国支部を建国しました。

〈フビライ・ハン:Wikimedia Commons〉
モンゴル帝国は世界最大級の広さを持つ大帝国で、中国だけでなく朝鮮半島や中央アジア、ヨーロッパの一部まで勢力を広げていました。
その範囲は地球の陸地の約22%を占めていました!
元からすると地球制覇のついでに、日本も侵略しときますかって感じだった訳です(笑)
〈1268年 モンゴルの国書が日本に届く〉
高麗の使者がフビライハンの国書を、日本に持ってきました。
当時の執権は「北条政村」です。

〈北条政村:Wikimedia Commons〉
「北条政村」は第2代執権「北条義時」の息子です。

〈北条氏家系図:Wikimedia Commons〉
本当は「得宗家」出身である「北条時宗」に執権を務めさせたいのが本音です。
しかしまだ若かったので「北条長時」と「北条政村」が中継ぎの執権として6代目と7代目に就任していました。
〈1268年 北条時宗 執権就任〉
日本の危機に対して、鎌倉幕府の第8代執権に就任したのが「北条時宗」です。
「北条時宗」は「元」からの要求を何度も無視しました。

〈北条時宗:Wikimedia Commons〉
無視した理由は南宋という国が関係あります。(オレンジ色の部分です)

南宋は鎌倉幕府と貿易をしており仲が良かったのです。
また鎌倉幕府唯一の外交顧問も南宋出身の人物を雇っていました。
元は南宋を征服しようと考えていたので、鎌倉幕府は手紙をシカトせざるを得なかったのです。
使者を追い返したことで、元は「日本は服従しない敵」と見なすようになりました。
1271年に「元」が建国されると、何度も日本に手紙を送り「元に従い、貢ぎ物をしなさい」と圧力をかけてきました。
「元に従わなければ、武力を使うことになる」と脅しの言葉まで入っていました。
〈1271年 異国警固番役 開始〉:1275年に正式に設置
鎌倉幕府は元の侵略に備え、異国警固番役という九州防衛部隊を配備しました。
畿内や西国の御家人に命じて、博多湾(筑前国)周辺を警戒させました。
この時の御家人の緊張感は、想像を絶するものだと思います。
〈1274年 文永の役〉
元は高麗と協力し、大軍を船に乗せて日本に攻め込んできました。
第1回戦「文永の役」開戦です。
画像右側の白い国が「高麗」です。

まずは対馬に上陸し、対馬の守護代であった「宗資国」を殺害しました。

〈宗資国:Wikimedia Commons〉
対馬を侵略して、約3万の兵が福岡県の博多に上陸しました。
元軍は火薬を使った武器「てつはう」(下の写真の中央で爆発しているもの)などを使い、日本の武士を驚かせました。
一番右に描かれている鎌倉武士は「竹崎季長」という人物です。
下の絵は「蒙古襲来絵巻」という巻物で、「竹崎季長」が自分の活躍を後世に伝える為に描かせたものです。

〈蒙古襲来絵巻:Wikimedia Commons〉

〈てつはう:Wikimedia Commons〉
御家人の戦闘スタイルは単騎で突撃していくのに対し、元は集団戦法を基本としていた為、御家人は苦戦を強いられました。
御家人が単騎で戦うのは、「手柄を立てたのが誰か分かりやすいから」です。
御家人達は奮闘し、元軍を押し返します。
元軍はしばらくすると撤退していきました。
理由は今回の目的は「偵察と脅し」だったからです。
圧倒的な軍事力を見せつければ、日本は服属するだろうと「フビライ=ハン」は考えていたのです。
「文永の役」の後、元は再び5人の使者を鎌倉幕府に遣わせました。
北条時宗は5人の使者の首を全員切り、対決姿勢を顕わにします。
〈1276年 長門探題 設置〉
元の襲来に備えて、「北条氏一門」が任命された役職です。
「長門国」は現在の山口県にあたります。

〈長門国:Wikimedia Commons〉
〈1276年 防塁 設置〉
鎌倉幕府は「文永の役」を受けて、警戒を強めていました。
博多湾沿いに「防塁(ぼうるい)」と呼ばれる石の壁を築いて、次の戦いの準備していました。

「文永の役」では元軍の上陸を許してしまったので、防塁で上陸を阻もうと考えたのです。
〈1279年 南宋 滅亡〉
元は遂に南宋を滅ぼしました。
南宋の軍事力を手にした元は、日本への侵略を本格化させます。
第2回戦「弘安の役」の始まりです。
〈1281年 弘安の役〉
「弘安の役」は「文永の役」の5倍の軍隊を準備し、日本に侵攻します。
東路軍(朝鮮から出発)と江南軍(中国南部から出発)の二手に分かれ、合計で14万人以上の兵を動員しました。

〈〈 弘安の役:Wikimedia Commons〉
しかし元軍は「防塁」を越えられず、海上での戦いが中心となります。
何人もの人が亡くなる激戦の末、暴風雨(台風)が襲い、元軍は大打撃を受けて撤退します。
多くの兵が海に沈み、日本は再び勝利しました。
この時の暴風雨は「神風(かみかぜ)」と呼ばれ、日本を守った神の風として語り継がれるようになりました。
2011年には長崎県の海底で、沈没した元軍の船が発見されました。

〈1284年 北条時宗 死去〉
執権として日本を守った「北条時宗」は、まるで力を使い果たしたかのように、32歳で亡くなりました。
1282年に建立した「円覚寺」に、「北条時宗」は葬られているのです。

〈〈 円覚寺:Wikimedia Commons〉
〈1296年 九州探題 設置〉
弘安の役が終わった後も、鎌倉幕府は3度目の襲来に備え続けます。
九州(鎮西)探題を設置し、太宰府や博多を中心に警備を強化しました。
警備が目的でもありましたが、鎌倉幕府が九州統治を強化するために置いた役職でもあり、北条氏が世襲していきます。
結局3度目の襲来は無かったので、九州の御家人の統率や政務全般を担当する機関に変化していきました。
命を懸けて日本を守ってくれた御家人達には、頭が上がりませんね。
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