【百人一首解説】NO.77  崇徳院

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今回の和歌

瀬を早(はや)み 岩にせかるる 滝川(たきがは)の
われても末(すゑ)に 逢はむとぞ思ふ

〈画像:Wikimedia Commons〉

現代語訳

現代語訳

流れの速い瀬で、水が岩にせき止められて二つに分かれても、やがて下流で1つになるように、

離ればなれになっても、いつかはきっとあなたに会おうと思っています。

語句解説

【瀬を早(はや)み】

「瀬」川の水が浅くて流れの速い場所。

「~を+形容詞の語幹+み」で、「~が・形容詞・なので」という理由を表す意味になります。

今回は「川の瀬の流れが速いので」という意味です。

【岩にせかるる滝川(たきがは)の】

「せかるる」=動詞「せく(塞く)」+ 受け身の助動詞。

「滝川」=「急流とか激流と」いう意味。

「川の激流が岩にせき止められる」という意味。

上の句全体が序詞です。

【われても末(すゑ)に】

「われても」= 動詞「わる(分かれる、裂ける)」の連用形 + 逆接の仮定「ても」。

「水の流れが2つに分かれる」という意味と「男女が別れる」という意味の掛詞です。

「2つに分かれてたとしても、いつかは」という意味になります。

【逢はむとぞ思ふ】

「分かれた水がまた1つになる」と「別れた男女が再会する」という2つの意味が込められています。

「逢はむ」=「逢ふ(会う)」の未然形+意志の助動詞「む」で「会おう」という意味。

「ぞ思ふ」= 強調の係助詞「ぞ」によって「思ふ」が強められている。

全体で「また逢いたいと思っている」という意味です。

作者: 崇徳院

崇徳院(すとくいん)〈1119年 ~ 1164年〉

〈画像:Wikimedia Commons〉

鳥羽天皇の第一皇子として生まれ、第75代天皇に幼くして即位しました。

院政を行う父・鳥羽上皇は後白河天皇を可愛がった為、政治的な対立が深まり、崇徳上皇は保元の乱(1156年)で敗北し、讃岐(現在の香川県)に配流されます。

↓保元の乱について解説しています、こちらもご覧ください!!↓

流刑先では都に戻れぬ無念や孤独感を抱きながらも、多くの和歌を詠み、『詞花和歌集』や『千載和歌集』などに作品が収められました。

特に恋愛や無常を題材とした歌に優れ、今回の歌も流刑前の若い頃に詠まれたと伝わります。

生涯の終わりまで都に戻れず、亡くなった後は怨霊として恐れられた人物でもありますが、歌人としての評価は高く、百人一首にも選ばれています。

鑑賞:一部の望み、政争で敗れた先の🏞️

速い流れの川が岩にぶつかって一度は二つに分かれながらも、下流で再び合流する様子を、恋人同士の一時的な別れと再会への願いに例えた一首です。

川の勢い(瀬の早さ)や岩にせき止められる様子は、まるで外的な事情や運命によって離れざるを得ない二人を表しています。

それでも「末に逢はむ」という結びは、必ず再び巡り会うという強い意志と希望を感じさせます。

自然描写と人の感情を重ねる事で、恋の切なさと前向きさが同時に描かれており、短歌としての完成度が高い一首です。

特に流れの速さや岩の存在といった動きのある映像が、感情の揺れや障害の存在を鮮やかに表現しています。

この歌は恋の歌であると同時に、崇徳院自身の人生にも重ねて読む事が出来ます。

崇徳上皇は父の鳥羽上皇と仲が悪く、可愛がっていた後白河天皇を即位させるべく鳥羽天皇に強引に譲位させられます。(崇徳上皇が鳥羽天皇の本当の子供ではないかという噂があったからです)

崇徳上皇は息子・重仁親王を天皇にと願ったものの、鳥羽上皇の意向で結果的に後白河天皇に位を奪われます。

鳥羽上皇の死後、「後白河天皇」と「崇徳上皇の皇子」どちらを天皇にするかで争って破れたのが「保元の乱」でした。

政治的な圧力で立場を追われ、別れや孤独を経験しながらも、いつか再び都に戻る日を信じ続けた彼の想いが、自然の比喩を通して滲み出ているようにも感じられます。

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