【10分で分かる!】壬申の乱とは?~日本史最大級の内乱、その背景と結末~

飛鳥時代

皆さんこんにちは、パルです!

今回は壬申の乱について解説します!

古代最大の内乱と言われるこの戦いで、歴史にどんな影響があったのか、10分で詳しく見ていきましょう!

そもそも壬申の乱とは?

結論から言うと、壬申の乱(じんしんのらん)は、672年に起こった古代日本最大級の内乱で、皇位継承をめぐって起きた戦いです。主な対立は、天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)と、天智天皇の息子・大友皇子(おおとものおうじ)の間で起こりました。この戦いの結果、日本の政治体制は大きく転換していくことになります。

ちなみに壬申は当時の干支(えと)で、現在は12種類の干支がありますが、当時は60種類の干支がありました。(下の写真、壬申は9番目)その一つが壬申という干支なのです。

壬申の乱の背景

まず、背景を見てみましょう。7世紀中頃、日本は唐と新羅によって滅ぼされた百済と連携し、白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)に参戦しますが、大敗を喫しました。この敗戦を機に、天智天皇(当時は中大兄皇子)(下の写真)は国内の防備強化や律令制度の整備を急ぎ、中央集権体制の構築を目指しました。中大兄皇子は645年の大化の改新でも有名ですが、白村江の敗戦後、さらに強権的な政治を進めていきます。(大化の改新については別の授業で既に取り扱っています!)

天智天皇は晩年、自分の子である大友皇子(下の写真)を後継者に指名しました。しかし、元々の皇位継承予定は弟の大海人皇子だったので、大海人皇子は皇位継承に不満を抱きました。すぐに不満を漏らすと、兄の天智天皇に殺されるので、出家という形で政治の表舞台から一時身を引きました。天智天皇の死後、大海人皇子は吉野(現在の奈良県)で挙兵し、各地の豪族を味方に付けながら大友皇子軍と戦いました。これが「壬申の乱」です。

壬申の乱の影響

戦いはわずか一か月ほどでしたが、戦力や士気の差から大海人皇子が圧勝。大友皇子は自害し、乱は終結しました。この勝利により、大海人皇子は即位し、天武天皇(てんむてんのう)(下の写真)となります。

天武天皇の即位は、日本の歴史において非常に大きな意味を持ちます。

彼は武力で皇位を勝ち取り、反対勢力は壬申の乱で一掃しました。天武天皇の時代に初めて「天皇」という言葉を使い始め、天皇中心の中央集権国家を本格的に築き上げていきました。

有力豪族達による連合政治を終わらせ、天皇が絶対的な支配者として君臨する国家体制の土台を固めたのです。

また、天武天皇の治世では、皇族の系譜を明確にし、のちの『日本書紀』や『古事記』といった正史編纂にもつながります。さらに、天武天皇の後を継いだのは、妻である持統天皇(下の写真)。女性天皇として初めて本格的に天皇政治を行い、藤原京の建設なども推進しました。

彼女は非常に優秀な人で、壬申の乱では旦那の天武天皇を懸命に支え、百人一首にも登録されています。

春すぎて 夏来にけらし 白妙しろたへの 衣干すてふ あま香具山かぐやま 

(春が過ぎて、いつの間にか夏が来たらしい。夏になると白妙の布を干すと語りつがれている天の香具山に、真っ白な衣が干されていることだ。)

忙しく政治を執り行う持統天皇が、ふと目に入った情景を歌った句だと言われています。

最後に

お疲れ様!

今日は壬申の乱を解説しました!

日本古代史の転換点と呼ばれる壬申の乱を少しでも理解してくれると嬉しいです。

それでは次の授業で~

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