皆さんこんにちは、パルです!
今回は「奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)」について扱います!
中学の歴史を習っていると急に出てくる奥州藤原氏がどんな一族だったのか、なぜ有名なのかをわかりやすく説明していきます!
では始めましょう!
奥州藤原氏とは?
平安時代の中期から鎌倉時代の初期まで、東北地方(今の岩手県や宮城県など)で大きな力を持っていた一族です。
「奥州」の「奥」は陸奥国(むつのくに)から来ています。
「藤原氏」は、貴族の中でも有名な一族で、政治の中心である京都でも活躍していました。
奥州藤原氏は、この藤原氏の流れをくむ人たちが東北で力を持ち、自分達の国のように治めていた一族です。
奥州藤原氏の権力者たち

・初代は藤原清衡(ふじわらのきよひら)
奥州藤原氏の始まりは、藤原清衡(上の写真)という人物です。
彼は戦乱が続いていた東北で、戦いをおさめて地域をまとめ、平泉(今の岩手県)を中心とした平和な国づくりを始めました。
また、清衡は戦争に疲れた人々のために仏教の力を使って、世の中を安定させようと考えました。
そのため、京都にも負けないほど立派なお寺「中尊寺(ちゅうそんじ)」を建て、金色の「金色堂(こんじきどう)」には自分のお墓もつくったんです。(下の写真)

清衡のあとを継いだのが、2代目・藤原基衡(もとひら)です。
清衡と肖像画が似ていますが、微妙に違います。

彼は毛越寺を建立しました。(下の写真、復元図)

毛越寺は平泉で戦乱が起こり、火災の影響で焼失しました。
今は池などの跡地しか残っていません。
基衡の後を継いだのが、三代目・秀衡(ひでひら)(下の写真)です。

秀衡は無量光院(むりょうこういん)というお寺を建てました。(下の写真、復元図)

無量光院も毛越寺と同様、平泉で戦乱が起こり、火災の影響で焼失し、現在では池などしか残っていません。
彼らは平泉をどんどん発展させ、京都のような文化の町を作りました。金・馬・米などの産物を使って、他の国や中国とも交流していたとも言われています。
源義経(みなもとのよしつね)との関係
奥州藤原氏が教科書などで有名になる大きな理由の一つが、源義経(よしつね)との関係です。
源義経は、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である、兄の源頼朝(よりとも)と仲が悪く、全国を逃げまわっていました。
そんな中、藤原秀衡は義経をかくまって守ってあげたのです。(源義経は小さい頃から、秀衡と親しかったと言われています。)
しかし秀衡の死後、4代目の藤原泰衡(やすひら)(肖像画は現存していない)は、頼朝が義経を差し出せと何回も言ってくるので、圧力におされて義経を殺してしまいます。
しかし頼朝から「殺せとは言っていない」と難癖をつけられ頼朝の怒りを買い、ついに奥州藤原氏は滅ぼされてしまいました(1189年)。
こうして源頼朝は東北にも守護と地頭を設置し、東国を手中に収めました。
その後西国にも影響を及ぼし始めますが、それは次の授業で!
最後に
今回は奥州藤原氏を解説しました。
高校になるともっと深い所まで勉強するので、ここで土台をしっかりと作りましょう!
京都の出来事との並び替え問題などで間違える事が多いので、ざっくり平安時代末期くらいの出来事だと、頭に入れておきましょう!
では次の授業で〜