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仏教伝来から現在までの流れを徹底解説!

皆さんこんにちは!

今回は皆さんが嫌いな、仏教史について解説していきます!(笑)

中学生・高校生問わず、頻出問題でありながら点数を落としまくるのが、この仏教史です。

皆さんの気持ちは非常によく分かります。

韓国アイドル、ジャニーズ、声優など、皆さんの「推し」がいる中で、なぜ坊主を覚えなきゃいけないのかと。

しかも一人だけではなく、それぞれの時代で有名なお坊さんがいるので、暗記の量も膨大です。

しかし皆さんが興味無いからこそ、沢山出題しやすいのです。

この記事を読めば、必ず点数を取れるようになるので、ついてきてください!

古墳時代と仏教 ~外交として使われた仏教伝来~

今回の話の主人公である仏教は、」そもそもいつ日本に伝わって来たのか。

答えは「古墳時代」です。

意外と思われた方もいるかもしれませんが、当時の百済の聖明王から仏教は伝来しました。(百済は下の写真の緑色の国)

〈画像:Wikimedia Commons〉

仏教伝来には2つの説があります。

年代出典出来事
538年(宣化天皇3年/欽明天皇即位前後)『元興寺縁起』百済の聖明王が仏像・経典を倭へ献上したと記録。
→ こちらが現在、有力視される説。
552年(欽明天皇13年)『日本書紀』百済の聖明王が釈迦金銅像・経典・仏具を贈り、仏教が正式に伝わったと記録。

奈良時代に成立した「日本書紀」は、信憑性が非常に低い為、現在では538年に伝わったとされるのが一般的です。

ちなみに暗記の語呂合わせは、「ゴミやな(538)仏教くだらない」です。

552年の方は、「午後に(552)に伝わった仏教」です。

意外と知られていないのですが、当時百済は周辺の国から圧力を加えられていて、滅びる一歩手前の状況でした。

そこで百済は倭(日本)に大陸の文化をあげることで、仲間になって貰おうと考えていました。

因みにこの当時の倭のトップは欽明天皇です。

〈画像:Wikimedia Commons〉

欽明天皇は当時の大臣(おおおみ)である「蘇我稲目」と、大連(おおむらじ)である「物部尾輿(おこし)」に、仏教を取り入れるか否か議論させました。

これを崇仏論争(すうぶつろんそう)と言います。

蘇我稲目は仏教を取り入れるのを賛成していて、理由は「進んだ大陸の文化を取り入れなければ、倭の国の発展が遅れてしまう」でした。

一方で物部尾輿は反対していて、理由は「倭には古来から神様がいるのに、仏様を導入したら神様達の怒りを買う」でした。

この対立は子供の代まで続き、遂に戦争に発展します。

その戦いを、587年の「丁未の乱(ていびのらん)」と言います。

この戦いで蘇我氏が勝利し、朝廷の権力を独占するようになりました。

飛鳥時代と仏教 ~仏教の導入~

592年、飛鳥時代は推古天皇の即位で始まりました。

〈画像:Wikimedia Commons〉

蘇我氏が権力を握り、仏教を取り入れる事も決まったので、仏教に寄せた国作りをしていきます。

以下の聖徳太子の有名な功績は、仏教を広める為の土台作りとして行いました。

①〈冠位十二階(かんいじゅうにかい)〉

身分や家柄に関係なく、能力に応じて役職を与える制度。(身分が一目で分かる為、仏教の年功序列の考え方に適している)

②〈十七条の憲法(じゅうしちじょうのけんぽう)〉

役人の心得や、国を治める上で大切なことを定めた文書。(第二条には仏教を篤く敬えと書いてある)

③〈法隆寺建立〉

仏教を広めるにあたり、最古の木造建築であるお寺を建てさせました。

この段階では民衆に広めるという感じではなく、まずは朝廷で働く人間から徐々に浸透させていこうという段階です。

仏教を語る上で法隆寺は必ず覚えましょう!!

また、この当時飛鳥寺や四天王寺など、重要なお寺がいくつも建てられています。

奈良時代と仏教 ~天皇の崇拝開始~

奈良時代は710年に、元明天皇が平城京に遷都して始まりました。(元明天皇は日本2人目の女性天皇、初代は推古天皇)

〈画像:Wikimedia Commons〉

奈良時代になると仏教が次第にエスカレートします。

理由は天皇自身が仏教にどっぷり浸かり、お坊さんの発言力が急激に増したからです。

しばらくは平和が続きましたが、724年に聖武天皇(下の写真)が即位すると、天災が頻発するようになりました。

〈画像:Wikimedia Commons〉

聖武天皇は何とかして国を安定させるべく、仏教の力で国を守る事を決めました。(鎮護国家思想)

仏教を国に広める為各地に、平城京に東大寺と大仏を建てさせました。 

平城京に大仏を造る時に、民衆の理解を得る為に積極的に活動した人こそ、中学生で習う行基と言う人物です。

〈画像:Wikimedia Commons〉

また、地方には「国分寺」と「国分尼寺(女専用)」を建てさせて、民衆も本格的に仏教を信仰するように推進しました。

しかし、農民は飛鳥時代に制定された税金(租・調・庸)も納めなければならず、厳しい生活を強いられました。

そこで農民は生きていく為に、様々な手段で対抗しました。

〈手段1:逃亡〉

国から与えられた田んぼ(口分田)を放棄して、山などに逃げた農民の事を、浮浪農民や逃亡農民と言います。

しかし、朝廷(政治を行っている組織)の役人に見つかると厳しい罰則があったので、別の手段を取った農民もいます。

それが第2の手段、「出家」です。

〈手段2:出家〉

出家とは仏教の道に進みお坊さんになる事で、聖武天皇が推し進めた仏教が、実はここで繋がってきます。

農民が出家した理由は「税金が免除されるから」です。

マニアックな話ですが、仏教の考え方では「前世」・「現世」・「来世」に分かれていて、現在我々が生きている世界は「現世」で、出家した人は「来世」扱いになります。

税金を課す事が出来るのは「現世」だけと決めているので、この考え方利用して仏教を全く勉強していない農民ですら、出家する人が続出しました。

インチキお坊さんが大量発生したという事です(笑)

この状況に困った聖武天皇も黙っていません。

仏教の本場の唐(中国)から招集したのが、鑑真(下の写真)です。

〈画像:Wikimedia Commons〉

鑑真は戒律(お坊さんになる為のルールブック)を日本に伝え、一切勉強していない農民がお坊さんになるのを阻止する為に活動した人でした。

平安時代と仏教 ~遣唐使に乗った2人の天才~

平安時代は894年に桓武天皇が、平安京に遷都した事で始まりました。

〈画像:Wikimedia Commons〉

奈良時代に流行した仏教を刷新する為に、2人の天才を遣唐使として派遣しました。

その2人の天才こそ、最澄と空海です。

最澄(伝教大師)〈767~822〉

宗派:天台宗

中心のお寺:比叡山延暦寺(滋賀県)(下の写真)

〈画像:Wikimedia Commons〉

考え方:すべての人に仏になれる可能性がある

著作:顕戒論けんかいろん(820年成立)

最澄は唐から帰国した後、天台宗を開きました。

天台宗は一部の人だけではなく、全員が仏になれるので、その為に毎日仏教の修行をしましょう!という考え方です。

空海(弘法大師)〈774~835〉

〈画像:Wikimedia Commons〉

「弘法筆を選ばず」の「弘法」は空海のことです。

宗派:真言宗

中心のお寺:高野山金剛峰寺(和歌山県)(下の写真)

〈画像:Wikimedia Commons〉

考え方:生きたまま仏になれる

著作:三教指帰さんごうしいき(797年成立) 

仏教は儒教・道教より優れているという内容です。

空海は唐から帰国した後、真言宗を開きました。

真言宗は天台宗と同様、毎日修行する事が良いとされ、空海が今も高野山で修行していると信じられています。

また真言宗では、師匠から弟子に直接仏教の教えを説くのが基本とされ、この考え方を密教といいます。(皆には教えない秘密の教え)

新しい仏教の時代を切り拓いた二人の功績は凄まじく、桓武天皇の思い通り奈良時代までの仏教を抑え込みました。

天台宗と真言宗はどちらも日々の修行を行い、山籠もりや滝行などをするのを基本としていた為、政治に口を出す暇がない教えだったのが強く影響しています。

鎌倉時代と仏教 ~6人の救世主~

鎌倉時代の農民は、あの世で救われることは無いと嘆いていました。

理由は平安時代の仏教が強く影響しているからです。

平安時代は上で書いた通り、「密教」が流行りました。

しかし密教は厳しい修行を前提としている為、農民にはそんな時間は全くありません。

日々の農作業で忙しいし、厳しい税金に追われているため、仏教の修行の余裕はないのです。

言い換えると、エリートしか許されていない修行とも言えます。

そんな農民を救うべく立ち上がった、6人の救世主が現れました。

以下に解説します。

開祖宗派教え・中心寺院代表作
法然 (1133–1212)浄土宗「南無阿弥陀仏」と唱えれば救われる(専修念仏)
寺院:知恩院(京都)
『選択本願念仏集』
親鸞 (1173–1263)浄土真宗
(一向宗)
罪深い人ほど救われる(悪人正機説)
寺院:本願寺(京都)
『教行信証』
『歎異抄(たんにしょう)』
一遍 (1239–1289)時宗念仏札を配って全国を放浪。(踊念仏)
寺院:清浄光寺(神奈川)
『一遍上人語録』
日蓮 (1222–1282)日蓮宗「南無妙法蓮華経」と唱えれば救われる。(南無妙法蓮華経は、題目とも言う)
寺院:久遠寺(山梨)
『立正安国論』
栄西 (1141–1215)臨済宗(禅)坐禅と師匠からの問いについて考え、悟りを開く(公案問答)
寺院:建仁寺(京都)
『興禅護国論』
道元 (1200–1253)曹洞宗(禅)ひたすら坐禅することが修行そのもの(只管打坐)
寺院:永平寺(福井)
『正法眼蔵』

分かりやすく解説すると、上4人は「唱える事で救われる」と説きました。

一方で下の2人は「座禅で救われる」と説きました。

まずは唱えなさい派閥の4人を紹介します

〈法然 ー 浄土宗〉

〈画像:Wikimedia Commons〉

彼は「南無阿弥陀仏」と何回も唱える事で、救われると説きました。

何回も唱える事を「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」と言います。

南無 = 「よろしくお願いします、感謝いたします」という、敬いの心が込められています。

阿弥陀仏 = 仏様本体を表しています。

ここで大事な点は、大変な修行が一切要らない事です。

何回も唱えるって面倒に感じるかもしれませんが、「農作業しながらでも仏教の修行が出来る」という事実が、鎌倉時代の農民の支えになりました。

中心寺院は知恩院(ちおんいん)です。(京都)

〈画像:Wikimedia Commons〉

〈親鸞 ー 浄土真宗〉

〈画像:Wikimedia Commons〉

彼は法然の弟子です。

師匠と同じく「南無阿弥陀仏」と唱える事で救われると説いています。

一番ユニークなのは、「一日一回だけ唱えるだけ」でいいと説いている点です。

めっちゃ楽ですよね(笑)

これはなぜか。

「仏様の救いはすでに約束されていて、その恩恵は悪人まで及ぶ。悪人も心を入れ替えて南無阿弥陀仏と唱えれば、救われるのだ」という考え方なのです。

この考え方を「悪人正機説」と言います。

浄土真宗ので有名なお寺である「築地本願寺」には、前に傾いている仏像があります。

理由は「救いたくてしょうがないから」だそうです。

浄土真宗はその楽さから圧倒的な人気を獲得し、後世でも力のある勢力に変貌を遂げていきます。

中心寺院は本願寺(ほんがんじ)です。(京都)

〈画像:Wikimedia Commons〉

〈一遍 ー 時宗〉

〈画像:Wikimedia Commons〉

彼は「踊念仏」を説きました。

現代人のイメージを覆す、仏教の在り方です。

全国を旅し、一緒に南無阿弥陀仏と唱え踊ってくれた人には、「念仏札」という救われると書かれているお札を配りました。

100万人に配ったとされ、当時の日本に人口が1000万人程なので、10人に1人と一緒に踊ったという、とんでもない活動家です。

中心寺院は清浄光寺(しょうじょうこうじ)です。(神奈川)

〈画像:Wikimedia Commons〉

〈日蓮 ー 日蓮宗〉

〈画像:Wikimedia Commons〉

日蓮は「南無妙法蓮華経」と唱える事で、救われると説きました。

「南無妙法蓮華経」を省略した言葉が「法華経」で、「題目」は「南無妙法蓮華経」の言い換えです。

日蓮宗の経典が「南無妙法蓮華経」なので、キリスト教で言えば、「聖書」と唱えているような感じです。

日蓮宗の特徴は、メチャクチャ口が悪い事です。

他の仏教の宗派をとんでもない言葉で避難しています。

日蓮宗を信じなければ、日本は滅びるとまで言っています。

中心寺院は久遠寺(くおんじ)です。(山梨)

〈画像:Wikimedia Commons〉

以下2人は座りなさい派閥の2人です。

〈栄西 ー 臨済宗〉

〈画像:Wikimedia Commons〉

栄西は座禅を基本とし、師匠から弟子に投げかけられる「公案問答(こうあんもんどう)」を大切にしなさいと説きました。

例えば、公案として「生まれる前の自分とは何か?」と弟子に問います。

弟子は座禅を組みながら、「問答」として、答えを出すという方式です。

この己や道徳に向き合う姿勢が武士の世の中とマッチし、幕府の保護を受け京都に建仁寺を建立しました。

なので中心寺院は建仁寺(けんにんじ)です。(京都)

〈画像:Wikimedia Commons〉

〈道元 ー 曹洞宗〉

〈画像:Wikimedia Commons〉

道元はひたすら座禅を組み続ける「只管打座(しかんだざ)」を説きました。

余計な事はせず、ひたすら自身に向き合う事こそが、悟りを開く為に必要な事だと考えています。

またこの世の全ての事は無駄ではなく、悟りに開く為に必要な要素だとも説いています。

曹洞宗は臨済宗とは対照的に、地方豪族や一般庶民に広がりました。

中心寺院は永平寺(えいへいじ)です。(福井)

私も実際に足を運びましたが、めちゃくちゃ広くて衝撃を受けました。

〈画像:Wikimedia Commons〉

これまで紹介してきた6人は、あまりに革新的な考えを持っていた為、最初は弾圧されたり島流しに合ったり、幾度も苦難に直面してきました。

それでも困っている人を救いたいという切なる想いから活動を継続し、現代にその考えを伝えています。

現代の我々も人が亡くなるとお仏壇を買う事がありますが、仏教徒でもないのになんでだろうと考えた事はありませんか?

その殆どは、この鎌倉時代に爆発的に仏教が広まり、その名残で何らかの仏教に関わりがある場合が多いのです。(筆者の家系は仏教徒ではありませんが、一応亡くなった時は浄土真宗のお墓を買っています)

戦国時代と仏教 ~戦国大名と仏教勢力の争い~

戦国時代は強大になりすぎた仏教勢力が、暴走している時期です。

特に浄土真宗(一向宗)の暴走が顕著に見られます。

有名な出来事は「加賀の一向一揆」と、「石山合戦」です。

加賀の一向一揆

15世紀後半、現在の石川県にあたる加賀の国で起こった出来事です。

浄土真宗(一向宗)の門徒達が守護大名を倒し、およそ100年間に渡って加賀の国を支配しました。(守護大名は、室町幕府に国の運営を任せられている人物)

浄土真宗は「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも救われる、という教えで多くの農民や町人に支持されました。

蓮如(一向宗のお坊さん)による布教によって加賀に信者が急増し、強い結びつきをもった門徒集団が形成されていました。

〈画像:Wikimedia Commons〉

一方で、加賀の守護大名である富樫政親は対立が多く、国の支配は不安定でした。

1488年、一向宗の門徒たちは蜂起し、ついに守護の富樫政親を自害に追い込みます。

その後は守護大名のいない状態が続き、門徒達が加賀を実質的に支配しました。

この体制は約100年もの間続き、他の国には見られない「百姓の持ちたる国」が誕生したのです。

しかし16世紀後半になると、織田信長が一向一揆を弾圧し、1580年には加賀の一向一揆も終わりを迎えました。

石山合戦

16世紀後半、大阪(現在の大阪市)にあった本願寺の拠点・石山本願寺を巡って、浄土真宗(一向宗)の門徒と織田信長が激しく戦った出来事です。

戦いはなんと 10年以上(1570年~1580年) に渡って続き、日本の戦国時代でも最大級の長期戦争となりました。

加賀の一向一揆と同様に、浄土真宗は農民や町人の間に広く信者を持ち、強大な組織力を誇っていました。

特に石山本願寺はその中心地で、「宗教都市」と呼べるほどの規模と経済力を持っていました。

石山本願寺を率いているのは顕如(けんにょ)という人物です。

〈画像:Wikimedia Commons〉

一方で、織田信長は天下統一を進める中で、この強力な宗教勢力を脅威と感じ、徹底的に制圧しようとしました。

以下が石山合戦の年表です。

  • 1570年:織田信長と石山本願寺の戦いが本格化。
  • 1574年:一向一揆が加賀や越前でも蜂起し、戦線は拡大。信長は苦戦を強いられる。
  • 1576年:毛利氏が石山本願寺を支援し、信長との戦いはさらに長期化。
  • 1580年:ついに本願寺側が和議を受け入れ、顕如(けんにょ)は石山本願寺を退去。

圧倒的な兵力に織田信長でさえ、苦戦を強いられました。

浄土真宗がいかに強力な勢力だったかが伝わって来ます。

江戸時代と仏教 ~キリスト教の抑え込みと現代への基盤~

江戸時代ではキリスト教が禁止になりましたが、キリスト教徒の改宗先が仏教でした。

仏教は年功序列を大切に考える為、江戸幕府が目指す身分秩序とマッチしていた事が要因です。

幕府は「寺請制度(寺壇制度・檀家制度)」を設けて、宗門改めを実施しました。

改宗させたら、宗門改帳を幕府に提出させました。

つまり改宗させた記録を、文章にして残したという事です。(それほどキリスト教を厳しく取り締まっていた事が分かります)

農民は住んでいる近くの寺を檀那寺(所属する寺)として登録させ、寺請証文(檀家証明書)を農民に発行しました。(檀家と言うのは、寺に登録されている人を指します)

農民を檀那寺に登録させることで、戸籍の役割も果たし、幕府は農民の管理を容易に行えるようになりました。

また強制的に仏教徒にさせられた為、熱心ではない仏教徒が大量発生しました。

これが現在の「仏教徒でもないのに仏壇を買って、葬式もお坊さんを呼ぶ」という謎の行為に繋がっているのです。(人が亡くなった時だけ仏教の方式を葬式採用するので、「葬式仏教」と言います)

明治時代と仏教 ~神道のゴリ押しとの共存~

明治時代になり、天皇が再び権力の中心として置かれるようになりました。

それに伴って、「神道」が重視されるようになります。

天皇は神の末裔だと考えられており、神道を民衆に広める事で、国家の土台を強固なものにしようと考えたのです。

仏教との関連ですが、一部の仏教の宗派は国と対立する事はありましたが、バチバチに神道と対立するような事はありませんでした。

この当時は既に、現代でいう「葬式仏教」に変わっていました。

昭和時代までは、基本全員神道を信仰し、亡くなった時は葬式仏教です。

戦後と仏教 ~宗教の自由を手にした日本人~

1945年、日本は太平洋戦争に敗北し、GHQに占領されました。

天皇を崇め「天皇万歳」と叫びながら命を投げ出す日本人を目にしてきたアメリカは、「神道指令」を出して神道を信仰するのを禁止しました。(日本国憲法も天皇は神ではなく、「象徴」だと位置付けていますね)

また戦時中禁止されていた、キリスト教などは解禁されました。

仏教も全ての宗派が自由になりましたが、他の宗教も含めここから日本で爆発的に広まる事はありませんでした。

「神道が取り上げられて、日本人宗教観に穴が開いた」という表現が適切かもしれません。

現在皆さんの周りに、宗教を信仰している方がいるかもしれません。

現代の大半の日本人にとって、宗教を信仰していると聞くと、「変わった人なんだなぁ」と思う方すらいるかもしれません。

宗教観を失った日本人にとっては、しょうがない事なのです。

しかし世界を見てみると、地球人の半分以上は何らかの宗教を信仰しています。

グローバル化が進む今、色んな宗教を信仰している方と出会う事になります。

宗教を信仰している人は、全然珍しくないと思って貰えれば嬉しいです。

受験生の方へ

大学受験を迎えるに当たって、絶対に外せない書籍があります。

それが日本史一問一答です。

 

 日本史一問一答【完全版】3rd edition [ 金谷 俊一郎 ]

今まで多くの日本史一問一答に目を通してきましたが、ダントツで使いやすいのが東進ブックス出版の一問一答です。

最難関大学にもバッチリ対応できる問題量で、共通テストの対策も勿論万全です。

以下が実際の例題です。

日蓮は[★★]教が仏法の正しい教えである事を悟り、

[]を唱える事によって救われると説いた。

文章が虫食い形式になっており、虫食いの[]の中に星1〜3が書かれていて、一目で単語の重要度分かります。

例題の答えは、★★=法華、=題目、となります。

私立大学にしろ、国公立大学にしろ、日本史受験をするなら絶対に必要になる書籍です。

学校のクラスを見渡すと、既に持っている人もいるのではないでしょうか。

自分が受ける大学の難易度に合わせて、勉強量を調節できる書籍なので、受験勉強のゴールを知る為にも、一回は目を通して欲しいです。

早めに対策した者が受験勉強を制します。

さぁ、日本史を楽しみましょう!

 

 日本史一問一答【完全版】3rd edition [ 金谷 俊一郎 ]おわりに

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