皆さんこんにちは!
今回は岩倉使節団のメンバー紹介と留守政府について解説します!
版籍奉還と廃藩置県を終え国内の制度を整えた政治政府は、既に海外に目を向けていました。
明治政府の一番の目標である「条約改正」に向けて、一歩を踏み出しましょう。
留守番を任された留守政府の政策も確認していきます!
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岩倉使節団
〈1871年 岩倉使節団 出発〉
版籍奉還と廃藩置県を終えた明治政府は、既に海外に目を向けていました。
欧米列強と対峙する為に選ばれたメンバーこそ、討幕派の公家でリーダーの「岩倉具視」を中心とする「岩倉使節団」です。

〈岩倉具視:Wikimedia Commons〉
岩倉使節団の目標は「条約改正」と「海外の視察」でした。
「条約改正」は、江戸時代末期に欧米列強と結んだ、不平等条約を指しています。
具体的には「日米修好通商条約」です。
↓日米修好通商条約の復習を行いたい方は、こちらをご覧ください!↓
「関税自主権」を海外に認めており、「領事裁判権」が日本に無いというのが、日米修好通商条約の内容です。
不平等条約を結んだ理由は単純に、「日本が海外よりも弱かったから」です。
ですので明治政府は「海外を視察」する事で、日本に足りない部分を明確化し、列強と肩を並べようとしているのです。
岩倉使節団のメンバーは左から「木戸孝允(きどたかよし)」、「山口尚芳(やまぐち ますか )」、「岩倉具視(いわくらともみ)」、「伊藤博文(いとうひろぶみ)」、「大久保利通(おおくぼとしみち)」です。

〈岩倉使節団:Wikimedia Commons〉
こうして岩倉使節団は留守政府に「重要な事は何も決めるな」と言い残し、横浜を出発しました。
この写真が有名過ぎて5人で向かったと思われがちですが、実際は50人程で海外に出発しています。
最初に向かったのはアメリカでした。
条約改正をお願いしましたが、お作法などを心得ていなかった日本は相手にされませんでした。
条約改正の目標は早々に諦めて、「海外の視察」に力を入れる事にしました。
その後はヨーロッパを視察し、日本に帰国しました。(訪問国は、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア、スイスの12か国)
帰路はヨーロッパの植民地を訪問しました。(セイロン、シンガポール、サイゴン、香港、上海など)
この視察で使節団は、「日本と比べて産業が発展しているから、海外は強い」と考えました。
帰国以降は産業を活性化する「殖産興業」に、力を入れていきます。
「殖産興業」に力を入れる事で、「富国強兵」を目指しているとも言えます。
使節団が日本に帰国した時、一方の留守政府の方は大変な事になっていました。
留守政府の政策
岩倉使節団から「重要な事は何も決めるな」と釘を刺されていた留守政府ですが、新しい世で何もしないというのは、正直無理でした。
海外渡航中の2年間で、留守政府は数々の制作を打ち出しています。
以下に解説していきます。
〈1871年 11月8日 琉球漂流民殺害事件〉
琉球の船員が漂流し、台湾に漂着しました。
そこで台湾人に琉球民が殺害される事件が発生します。
事件に対して「清」に抗議しましたが、台湾は「化外の地」(国家統治の及ばない場所)であるとして、責任は取らないと返事が来ました。
日本側はこの返事に当然ブチ切れます。
〈1874年 5月6日 台湾出兵〉
「琉球漂流民殺害事件」を受けて、報復として台湾に出兵しました。
「台湾出兵」と言います。

〈台湾出兵:Wikimedia Commons〉
清側は抗議し、日本に撤兵を強く求めましたが、日本はお構いなしに攻め込みます。
イギリスが仲介によって、「清」が50万両(テール)の賠償金を支払い、事件は決着しました。
琉球の日本帰属が国際的に認められる形になりましたが、これでも「清」は日本への帰属を認めませんでした。
〈1872年 9月14日 琉球藩 設置〉
明治政府が琉球への影響力を強めた出来事です。
江戸時代には「薩摩藩」が琉球を服属させる事に成功しました。
琉球は「清」と「日本」両方の属国でしたが、日本は琉球への影響力を高める為、琉球版の廃藩置県を決行したのです。
当然「清」からの反発は免れません。
しかし「清」はアロー戦争で国内がボロボロになっていたので、日本に戦争を起こす余裕はありませんでした。
ただこの時点では、完全に日本の領土になった訳ではありません。
琉球は変わらず日本にも清にも朝貢しているので、実情として何も変わっていません。
琉球はどっちの国なのか問題は、1894年の「日清戦争」で解決するのです。
〈1873年 1月 徴兵令 〉
1873年に徴兵令が出され、初めての国民軍隊が作られました。
徴兵令は1872年に「徴兵告諭」に基づいて出されています。
満20歳以上の男子で徴兵検査を受け、合格者より抽選で三年間勤務という規定が設けられました。
しかし国民皆兵制度を導入する上で、留守政府は説明として海外の言い方を見習って「血税」と表現しました。
「血税」と言うのは、その国に住む国民(血)が国(体)を守るという比喩表現なのですが、当時の国民には上手く伝わらず、「献血」を強制されると勘違いする人が現れ国民皆兵に反対する「血税一揆」が発生しました。
また元々武士だった人は仕事を取り上げられ、一般身分と成り下がり不満が高まっていました。
〈1873年 征韓論 〉
国民の不満を感じ取った留守政府は海外に不満をぶつけさせる為、「征韓論」を打ち出しました。
「征韓論」は文字通り、「韓国を征服するという政策」で、「仕事を失った武士に対する救済は勿論、新しい領土を手に入れる事で国民に還元する」という狙いもありました。
特に征韓論を支持していたのは「板垣退助」で今にでも兵を送り戦争しようと考えていました。

〈板垣退助:Wikimedia Commons〉
「板垣退助」に対し「西郷隆盛」は「流石にすぐに戦争はまずい」と考えていました。
朝鮮に服従するよう伝えてくるので、私が殺された時に軍隊を出す準備をしろと伝えていました。

〈西郷隆盛:Wikimedia Commons〉
考え方は若干違いますが、留守政府は征韓論を実施する方針で固まりました。
〈1873年 明治6年の政変 〉:岩倉使節団 帰国
征韓論が留守政府で盛り上がりを見せる中、1873年に岩倉使節団が帰国しました。
こうなると明治政府は揉めに揉めます(笑)
岩倉使節団は「韓国は置おいといてまずは国内優先」と意見しますが、留守政府は「征韓論は武士の救済措置で絶対に必要」と意見を曲げません。

〈征韓論についての会議:Wikimedia Commons〉
結局「明治天皇」が岩倉使節団の意見を支持した事で決着が付きました。
しかしこの決定を不服として「西郷隆盛」、「板垣退助」、「江藤新平」、「後藤象二郎」など、旧土佐藩・肥前藩などのメンバーを中心に明治政府を下野しました。(下野=辞めること)

〈江藤新平:Wikimedia Commons〉

〈後藤象二郎:Wikimedia Commons〉
この事件を「明治6年の政変」と言います。
以降は「大久保利通」が中心となって、明治維新を進めていく事になりました。

〈大久保利通:Wikimedia Commons〉
一方で政府を下野したメンバーですが、明治時代初期に多大な影響を及ぼします。
「西郷隆盛」、「江藤新平」は「武力」を持って政府に対抗を始めます。
これが「萩の乱」や「西南戦争」などの、不平士族の反乱に繋がっていきます。
「板垣退助」、「後藤象二郎」は、「言論」で政府に対抗するようになります。
この動きを「自由民権運動」と言います。
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