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【天下分け目の戦い】関ヶ原の戦いを分かりやすく解説!

皆さんこんにちは、パルです!

今回は秀吉の死後から関ヶ原の戦いまでを解説していきます。

天下統一も束の間、日本は天下分け目の決戦を迎えます。

移り行く時代を写真と共に学んでいきましょう!

関ヶ原の戦いまでの過程を復習したい方は、こちらをご覧ください!

早すぎた秀吉の死

1585年、豊臣秀吉は「関白」に就任し、武家の中でも公家の中でも頂点に君臨しました。

しかし、後継者が幼いという大きな弱点がありました。

秀吉の息子は「豊臣秀頼と言います。

〈画像:Wikimedia Commons〉

秀吉が亡くなった時まだ6歳で、当然政治を執る事は出来ません。

そこで秀吉は生前、息子を守る体制を整えます。

〈五大老・五奉行 設置〉

「五大老(ごたいろう)」と「五奉行(ごぶぎょう)」の設置しました。

以下に解説します。

〈五大老〉

メンバー

  • 徳川家康(とくがわいえやす)
  • 毛利輝元(もうり てるもと)
  • 上杉景勝(うえすぎ かげかつ)
  • 前田利家(まえだ としいえ)
  • 宇喜多秀家(うきた ひでいえ)

全国の有力な大名を集めました。

「重要な政治・軍事の決定」を行う、現場の人という感じです。

この中でも特に力を持っていたのが、「徳川家康です。

〈徳川家康:Wikimedia Commons〉

〈毛利輝元:Wikimedia Commons〉

〈上杉景勝:Wikimedia Commons〉

〈前田利家:Wikimedia Commons〉

〈宇喜多秀家:Wikimedia Commons〉

〈五奉行〉

メンバー

  • 石田三成(いしだ みつなり)
  • 前田玄以(まえだ げんい)
  • 長束正家(なつか まさいえ)
  • 増田長盛(ました ながもり)
  • 浅野長政(あさの ながまさ)

古くから豊臣家に仕えてきた、有力な家臣達です。

「お金の管理、土地の調査、法律の実施」などを行う、官僚みたいな仕事を担当します。

〈石田三成:Wikimedia Commons〉

〈前田玄以:Wikimedia Commons〉

〈長束正家:Wikimedia Commons〉

〈増田長盛:Wikimedia Commons〉

〈浅野長政:Wikimedia Commons〉

〈徳川家康の不穏な動き〉

ここで皆さんに覚えといて欲しい事が1つあります。

それはこれだけの権力者達を集めて、揉めない訳が無いという事です(笑)

「徳川家康」は秀吉の死後、禁止されていた大名同士の婚姻を行い軍事的結束を固め、豊臣家を凌駕する存在になっていました。

五奉行のメンバーを中心に、自分の敵になりそうな大名に難癖を付け、謹慎処分にします。

徳川家康は権力を掌握する為、1人ずつ戦力を削ごうとしたのです。

難癖を付けられてもパワーの差に明確な差があるので、言いなりになって泣き寝入りするか、徳川家康の傘下に入るしか道は残されていないのです。

〈会津征伐〉

関ヶ原の戦いの引き金になったのは、「会津征伐」です。

五大老の1人である「上杉景勝」が自分の領国である会津(福島県)に帰って、城の築城などを行っていました。

「徳川家康」は謀反を企んでいるとして、京都に上洛するように指図しました。

当然「上杉景勝」は謀反なんて身に覚えが無いので、上洛を拒否します。

これを謀反の証拠だとして、「会津征伐」を決行しました。(完全に難癖です)

これを良しとしなかったのが石田三成」です。

石田三成は家康の動きを「豊臣政権を乗っ取ろうとしている」と見て、全国の反徳川の大名に呼びかけて挙兵します。

石田三成は「毛利輝元」を西軍の総大将とし、徳川家康率いる東軍と争いに発展するのです。

~知ってると凄い!、大名の「格」!!~

今までの解説を振り返ると、徳川家康と石田三成がライバル関係のように見えます。

しかし現実問題、徳川家康は石田三成よりも遥かに「格上です。

この当時の大名のパワーを測る指標に「石高」があります。

石高とは「どれほどの土地を所有していて、どれだけお米の生産が出来るか」が分かる指標です。

多くのお米が採れるという事は、多くの兵士を維持できるという事です。

徳川家康の石高は約250万石」、石田三成の石高は「約19万石」と、正直相手にもなりません。

どう考えても「徳川家康」が勝つに決まっています。

上記の理由から、石高約120万石ある「毛利輝元」を西軍の総大将とし、「徳川家康」に対抗したのです。

関ヶ原の戦い

〈概要〉

1600年、天下分け目の戦いと言われる「関ヶ原の戦い」が勃発します。

関ヶ原は岐阜県にあり、交通の要所として知られています。

〈関ヶ原:Wikimedia Commons〉

西軍(石田三成側)と東軍(徳川家康側)の合戦の様子です。

〈関ヶ原の戦い:Wikimedia Commons〉

西軍には五奉行の他に、島津義弘「大谷吉継」などの有力武将が参加しました。

〈島津義弘:Wikimedia Commons〉

「大谷吉継」は大河ドラマで顔を白い頭巾で覆っている人物です。

病気で荒れてしまった顔を隠す為に付けていました。

〈大谷吉継:Wikimedia Commons〉

東軍には「井伊直政」「福島正則などの家康に仕える大名が参戦しました。

〈井伊直政:Wikimedia Commons〉

〈福島正則:Wikimedia Commons〉

〈小早川秀秋の裏切り〉

しかし戦いが始まってすぐ、西軍の中で東軍に寝返る武将が続出し、形勢が大きく東軍に傾きます。

特に「小早川秀秋の裏切りは致命的でした。

元々西軍15000人として布陣していた彼が、戦の最中に東軍に加勢した事で、西軍は大混乱となり敗北が決定的となりました。

〈画像:Wikimedia Commons〉

「小早川秀秋」は西軍の総大将・毛利輝元のいとこにあたる人物です。

輝元は、「秀秋のやろう裏切りやがって…」と思っていたことでしょう(笑)

小早川秀秋が石田光成を裏切った理由は諸説ありますが、有力な説を2つ紹介します。

① 徳川家康からの圧力と約束説

  • 家康は秀秋に「もし西軍を裏切れば、加増する(領地を増やす)」と約束していたとされます。
  • 若くて野心もあった秀秋は、「自分が将来、豊臣政権で出世できるか不安」だった為、この誘いに乗ったとも言われています。

② 石田三成との不仲

  • 三成は「官僚型の真面目な政治家」で、感情より規律を重視する人物。
  • 一方、秀秋は若くて自分の立場を大切にしたいタイプ。
  • 三成が秀秋を信頼していなかった事もあり、「自分は大事にされていない」と感じていた可能性があります。

関ヶ原の戦いの勝利により、西軍に参戦した大名を領地没収や島流しにして、権力を強固なものにしました。

豊臣家も格下げし、完全に豊臣家と徳川家の立場が逆転しました。

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