皆さんこんにちは、パルです!
今回は織田信長の天下統一事業について、解説していきます。
戦国時代を終わらせる男は、一体何を考えどんな事をしたのかを知ると、歴史がもっと好きになるはずです。
今日も楽しく歴史の勉強を始めましょう!
織田信長の登場

織田氏と言うのは元々、尾張の国(現在の愛知県)で守護代(守護の代わりに国を統治する役職)を務めていた一族でした。
1534年、織田信長(上の写真)は生まれましたが、織田家内部からは「大うつけ」=大バカ者と呼ばれていました。
派手な振る舞いと奇行を繰り返しており、信用を無くしていたのです。
しかし鉄砲の訓練や馬術などの鍛錬には励んでいたらしく、不真面目だったわけではないようです。

織田家は最初は小さな領地を持つ大名に過ぎませんでしたが、1560年の「桶狭間の戦い」(上の写真)で、当時圧倒的な大軍を率いていた今川義元(下の写真)を奇襲して打ち破り、一気に名前を天下に広めました。

信長が天下統一のために本格的に動き出したのは、次期将軍候補であった足利義昭(下の写真)を伴って京都に上洛した時でした。

しかし将軍が天下を治める考え方を持つ義昭と、武力で天下を治めようと考えている信長に反発するようになり、信長は最終的に義昭を京都から追放し、室町幕府を事実上終わらせました。
これにより、信長は「天下人」としての地位を確かなものにしました。
織田信長の厳しい戦いの連続
信長が戦った相手には、有力な戦国大名達や仏教勢力がいました。
武田信玄、朝倉義景や浅井長政、石山本願寺など、挙げていくとキリがありません。

浅井家とは最初は同盟関係でしたが、朝倉義景(上の写真)との関係に裏切られ、姉川の戦いで浅井長政(下の写真)を撃退し、数年後浅井家も朝倉家も滅ぼしました。

また、一向一揆と呼ばれる仏教勢力とも激しく戦いました。
特に、石山本願寺との戦いは10年以上にわたって続きましたが、最終的に信長が武力で制圧し勝利します。

更には戦国最強とも言われた、武田信玄の後を継いだ武田勝頼(上の写真)との戦いも重要です。

1575年の「長篠の戦い」(上の写真)では、信長が大量の鉄砲を組織的に使い、武田軍の騎馬隊を撃破しました。
信長は戦国最強と名高い武田の騎馬隊を、当時は主流では無かった鉄砲を大々的に導入することにより、戦力差を埋めて見せました。
この戦い以降、日本の戦い方は大きく変わりました。
織田信長の政策
信長は鉄砲の導入以外にも、他の大名と比べてもかなり革新的なやり方で国を豊かにしていました。
古い習慣にとらわれず、商業を重視し、楽市楽座という制度で自由な商売を認め、経済を活性化させました。
楽市楽座について、深掘りしていきます。
戦国時代の日本では、多くの場所で「座(ざ)」という商人のグループがありました。
この「座」は、特定の商人だけが商売でき、特定の商品を扱える特権を持っていて、新しく商売を始める人には許可が必要だったり、座に入る為に重い税金を取ったりしていました。
これでは新しい商売が育ちません。そこで織田信長は、以下のような政策を行いました。
- 座の特権を廃止
→ 特定の商人だけが商売できる仕組みをやめ、誰でも自由に商売をできるようにしました。 - 市場(いち)の開放
→ 誰でも市場で自由にお店を出して、好きな物を売れるようにしました。 - 税の免除
→ 一定期間商人に対して税金を取らないようにすることで、商売を始めやすくして経済の活性化を狙いました。 - 関所(下の写真)の廃止
→ 当時は他の地域に移動する時に関所を通り、通行料金を払わねばなりませんでした。これを廃止することで他の地域からも、織田領内に人が訪れるようになりました

これらの政策は圧倒的な効果をもたらし、国を強くしました。
信長はこれらの政策に付随して、軍隊の整備も行いました。
当時の兵士は普段は農作業をしている農民で、農作物の収獲が無い時期に戦いをすることが多い時代でした。
信長は楽市楽座で国が豊かになったので、お給料を払う代わりに専属で兵士として戦ってくれる人を募集し、一年中戦える仕組みを整えました。
兵士達も農業の片手間ではなく戦いに集中できるので、兵士の士気(戦うモチベーション)も高かったようです。
また、南蛮(ヨーロッパ)から伝わったキリスト教や西洋の文化も積極的に取り入れています。
オルゴールなどもこの当時に伝わってきたと言われています。
最後に
お疲れ様!
織田信長の天下統一事業はどうだったかな?
信長は当時の常識を次々破壊することで、圧倒的な経済力と軍事力を手に入れ、天下統一へと近づきました。
しかしそんな信長も突然命を落とすことになります。
次回は本能寺の変と豊臣秀吉について解説します!
それでは次の授業で~