皆さんこんにちは、パルです!
今回は水野忠邦と天保の改革について解説していきます!
毎度恒例ですが、水野忠邦って何やったんだっけ?そもそも有名な人なの?って思っている方、多いのではないでしょうか笑
水野忠邦とペリー来航の時は、実は同じ将軍でした。
教科書を読んでいると、時代の移り変わりが分かりにくいので、ここでしっかり覚えましょう!
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水野忠邦の生い立ち
「水野忠邦」は1794年(寛政6年)に肥前国唐津藩主・水野忠光の長男として生まれました。

〈画像:Wikimedia Commons〉

水野家は「譜代大名」であり、長崎の警備を任されている藩でした。
譜代大名って覚えていますか?
譜代大名は1600年の関ヶ原の戦い以前から、徳川家に従っていた信頼のある家臣です。
忠邦は幼少期から政治的教養を身につけ、1812年には父の隠居により家督を継いで唐津藩主となります。
しかし、水野忠邦は幕府の幹部になりたいと考えていた為、徳川家にゆかりのある「浜松藩」への転封を申し出て実現させました。
その後もあらゆる手段を使いながら出世の階段を上り、「西の丸老中」に就任します。
「西の丸老中」は次の将軍の側近です。
徳川家斉の大御所時代
当時の将軍は、第11代将軍「徳川家斉」です。

〈徳川家斉:Wikimedia Commons〉
家斉は超絶浪費家で有名です。
奥さんが40人・子供が55人という、とんでもない経歴を持っています。
徳川家斉は歴代徳川将軍で最長の50年間、将軍として君臨し続けました。
徳川家斉は第12代将軍に「徳川家慶」を置いて、本人は「大御所」として実権を握り続けました。

〈徳川家慶:Wikimedia Commons〉
大御所時代に起こった出来事を纏めていきます。
〈1804年 レザノフ 長崎に来航〉:ラクスマンの来航を受けて
1792年にロシア人の「ラクスマン」が根室に来航した時、幕府は「長崎に行ってくれ」とお願いし、長崎奉行所は「また今度来て」と曖昧な返事をしました。
そしたら通商を求めに、「レザノフ」が長崎に来航しました。

〈レザノフ:Wikimedia Commons〉
レザノフの要求は「長崎以外の港も開いてほしい」でした。
北に位置するロシアからだと、長崎は遠くて不便だったのでしょう。
幕府が使者を長崎に送り、半年待たせた挙句通商を拒否し、ロシアに帰らせました。
〈1806年 文化の撫恤令(ぶじゅつれい)〉
「文化」= 当時の年号です。
「撫恤」=「物を恵む」という意味です。
レザノフを強引に返した日本ですが、ロシアとの関係悪化を恐れていました。
「文化の撫恤令」はロシア船が接近したら「薪や水」を恵んで帰ってもらうのが狙いの法令です。
〈1805年 関東取締出役 設置〉
江戸幕府が「関東農村の治安維持」の為に置いた役職です。
この当時関東一帯(武蔵・相模・上野・下野・常陸・上総・下総・安房)で、無宿人(住所不定者)・博徒が増えて治安が悪化していました。
「無宿人・博徒の取り締まり、農村での争いの仲裁」を目的とし、「関東農村専門の警察官」を設置したイメージです。
〈1808年 フェートン号事件〉
イギリスの軍艦「フェートン号」が、オランダ船のフリをして長崎湾に侵入した事件です。

〈フェートン号:Wikimedia Commons〉
近づいてきた日本人を拉致して「食料・薪・水」を要求し、強奪した上で帰っていきました。
長崎の警備が万全ではないと、危機感を覚える事件でした。
〈1811年 ゴローニン事件〉
1808年のレザノフ来航を受けての出来事です。
半年待たされて思うような結果が得られなかったレザノフは、武力で日本を開国させる構想を描いていました。
レザノフは樺太と択捉島を襲撃する事件を起こしました。
これを受け、幕府は蝦夷地を直轄化しロシアの接近に備えます。
緊迫した雰囲気の中、千島列島を測量していた「ゴローニン」が国後島で日本人に捕まりました。

〈ゴローニン:Wikimedia Commons〉
ロシアは日本の対応を受け、日本人を拉致して「ゴローニン」と交換する作戦を思い付きます。
拉致された日本人を「高田屋嘉兵衛」と言います。

〈高田屋嘉兵衛:Wikimedia Commons〉
結局この2人の交換で話は纏まり、日露関係は改善されました。
〈1825年 異国船打払令〉
茨城県近くの海で漁をしているアメリカ船に日本人の漁師が接近し、鯨の取り方を教えてもらったのが事の発端です。
当時日本人はまだ鯨を取る技術が無かったので、漁師は熱心に漁を見学したそうです。
しかしこの状況を幕府が放って置く訳がありません。
日本人と外国人の接触を断ち切る為、「異国船打払令」を制定し、近づいてきた外国船は砲撃する方針になりました。
〈1833年~1839年 天保の大飢饉〉
1833~1839年は全国的に天候不順が続き、「天保の大飢饉」が発生しました。
下の絵は天保の大飢饉の際、小屋に収容され保護を受ける罹災民を描いたものです。

〈天保の大飢饉:Wikimedia Commons〉
食糧不足と経済混乱が広がり農村部は疲弊し、都市部では米価が高騰して、庶民生活は極度に苦しい状況でした。
「天明の大飢饉」にも負けない餓死者が出たと言われています。
〈1837年 大塩平八郎の乱〉
1837年に大坂で「大塩平八郎」の乱が勃発しました。

〈大塩平八郎の乱:Wikimedia Commons〉
「大塩平八郎」は元大坂町奉行所の与力でした。
町奉行所は現在で言う警察署で、与力は警察署の中で割と上の役職だと思って下さい。

〈大塩平八郎:Wikimedia Commons〉
大塩平八郎は大阪の役人に民衆を救うように何度もお願いしますが、聞き入れられる事はありませんでした。
それどころか、これ以上口出しすると処罰すると言われ、怒りが頂点に達しました。
農民が餓死して死ぬくらいなら、武器を取ろうと決意しました。
「大塩平八郎の乱」勃発です。
反乱の目的は「米が大量に保管されている大坂城の占拠」です。
幕府が隠し持っている米を民衆に分け与える事で、天保の大飢饉の影響で困窮している農民を救えると考えたのです。
大坂の火薬庫を襲撃し大坂の町を焼き払いながら進軍しましたが、反乱自体は僅か半日で鎮圧されました。
一時大塩平八郎は身を隠しましたが、幕府の役人に見つかり自刃しました。
民衆の不満が爆発した事、幕府の元役人が反旗を翻した事は、幕府に大きな衝撃を与えました。
〈1837年 モリソン号事件〉
「モリソン号」はアメリカの商船です。

〈モリソン号:Wikimedia Commons〉
日本人の漂流民を届けるついでに、日本へ通商を求めにきました。
日本では「異国船打払令」が出ているので、「モリソン号」を砲撃します。
結局日本人の漂流民を届けることが出来す、マカオに帰っていきました。
〈1839年 蛮社の獄〉
モリソン号事件を受けて、日本国内では当然批判が殺到します。
その中でも本を書いて批判した2人の人物がいました。
一人目は「高野長英」です。

〈高野長英:Wikimedia Commons〉
「高野長英」は「戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)」を出版しました。
内容は「異国船打払令は海外から批判を浴び、日本を危険に晒すことになる」です。
もう一人は「渡辺崋山(かざん)」です。

〈渡辺崋山:Wikimedia Commons〉
「渡辺崋山」は「慎機論(しんきろん)」を出版しました。
内容は「異国船打払令によってイギリスと戦争になるかもしれない」です。
要するに2人とも幕府の政治を批判した訳です。
幕府は2人を逮捕しました。
「高野長英」は脱獄し放浪生活を送り、「渡辺崋山」は自宅謹慎中に自殺しました。
天保の改革・始動
徳川家斉が1841年に死去すると、遂に水野忠邦に政治の主導権が回ってきました。
飢饉で混乱している経済と大御所時代に緩んだ政治を立て直すべく、老中首座に就任した水野忠邦が遂に動き出します。
1841年、「天保の改革」始動です。
天保の改革の「天保」は年号から来ています。
〈天保の改革の内容〉
やる気満々の水野忠邦は様々な政策を打ち出します。
天保の改革の内容は大きく分けて5つです。
- ①倹約令
- ②株仲間の解散
- ③薪水給与令
- ④人返しの法
- ⑤上知令
以下に解説していきます。
①倹約令:1841年
享保の改革と寛政の改革と同様の政策です。
幕府の財政再建の為に贅沢禁止令を発令し、庶民や大名に対して質素倹約を強制しました。
②株仲間の解散:1841年
物価の引き下げが狙いの命令です。
これが今回一番覚えてほしい内容と言っても、過言ではありません。
株仲間覚えていますか?
「株仲間」は「特定の製品を売る独占権」を持っています。
商人が製品を売りたい場合はお金を払って株仲間に入会し、商業活動を行っていました。
売る独占権があるという事は、自分たちで値段決められる事が何よりも特権です。
水野忠邦はここに目を付けました。
株仲間が不当に値段を吊り上げ物価を上昇させていると考え、株仲間の解散を命じました。
しかし結果的に物価は下降するどころか、上昇してしまいました。
なぜか分かりますか?
株仲間は製品毎に独自の流通網を発達させており、全国で適正な値段で売れるよう努めていました。
株仲間の解散によりこの流通網が破壊され、日本各地で品不足が発生し物価が更に上昇しました。
水野忠邦は現在のような「自由競争による価格の正常化」を目指しましたが、株仲間の解散により経済の混乱が生じてしまったのです。
③薪水給与令:1842年
中国とイギリスで起こった「アヘン戦争」が関係しています。
1800年代は日本近海に外国船が頻繁に出没し、不穏な空気が漂っていました。
1825年、幕府は「異国船打払令」を出し、鎖国体制を維持していました。
日本近海に現れた外国船に対して、いきなり砲撃するというかなりのパワープレイです。
アジア最強と言われていた清が、「アヘン戦争」でイギリスに大敗し話が変わります。

〈アヘン戦争:Wikimedia Commons〉
ずっと日本は中国をお手本としてきましたが、そんな中国がボロ負けした事は日本にも世界にも動揺が走りました。
そしてオランダ風説書によって、イギリスが日本に艦隊を派遣するという情報を幕府は掴みます。
このまま「異国船打払令」を継続すると、外国と戦争になると考えた幕府は「異国船打払令」を撤回します。
代わりに日本近海に現れた外国船に、薪(まき)や水を提供し速やかに帰ってもらう方針を取りました。
この法令が「薪水給与令」です。
④人返しの法:1843年
農村復興と江戸の人口削減政策です。
「天保の大飢饉」で農村部は壊滅的被害を受けており、生きていけない農民は江戸に出稼ぎに来ていた為、江戸の人口は増え続けていました。
「地方から来た人が、新しく江戸で戸籍を作るの禁止」
「江戸に来て日が浅い者は早く帰らせる」
「江戸への出稼ぎは許可が必要」
江戸の人口増加を食い止める為、厳しい制限を加えました。
⑤上知令(あげちれい):1843年
水野忠邦失脚の原因にもなった、幕府権力の強化を目指した政策です。
「上知」=「大名や旗本の領地を幕府直轄地(天領)に組み入れる事」を指します。
幕府の支配力を拡大と権威の見せつけが目的でした。
しかし元々土地を持っていた大名は当然大反対しますし、他の老中や民衆からも猛反発を受けました。(直轄地候補の場所が、他の老中の領地だった)
猛反発を受け、水野忠邦は「上知令」を実施出来ませんでした。
水野忠邦の失脚
天保の改革は民衆から、非常に評判が悪かったそうです。
特に上知令への反対運動には武士も加わり、水野忠邦排斥運動へ発展しました。
水野忠邦は段々と孤立し、遂に老中を解任され、天保の改革は終わりを告げました。
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