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【イカれ偉人】幕末の異端児・高杉晋作

皆さんこんにちは、パルです!

今回は幕末のイカれ偉人、高杉晋作について解説します。

知らない方も多いと思いますが、なんで中学で教えないのか不思議な程、イカれている人物です。

幕末の異端児・高杉晋作を見ていきましょう!

前回までの内容を知りたい方は、こちらをご覧ください。

高杉晋作の出自

1839年、高杉晋作」は長州藩士の家に生まれました。

〈画像:Wikimedia Commons〉

幼少期から聡明であり、長州藩の藩校である「明倫館」で学びました。

更に江戸に上京して、昌平坂学問所で儒学を修めました。(昌平坂学問所は幕府公認の学校)

〈明倫館:Wikimedia Commons〉

〈昌平坂学問所:Wikimedia Commons〉

江戸での勉強が終わった後地元に戻り、「吉田松陰」が開いた松下村塾で先進的な考え方を学びました。

〈画像:Wikimedia Commons〉

松下村塾で日本が外国からの危機にさらされている事に気づき、尊王攘夷の思想を抱くようになったと言われています。

吉田松陰から学んだ事を活かす為、高杉晋作は行動力は圧倒的な行動力を発揮します。

1862年には藩命により上海へ渡航し、外国の軍事力や経済力の実態を目の当たりにし、攘夷思想ではなく、開国と富国強兵の必要性を理解しました。

絶望的な状況をひっくり返す高杉晋作

〈1863年 下関戦争・禁門の変〉

1863年、長州藩が攘夷を決行した報復として英仏蘭米連合艦隊と「下関戦争」が勃発しました。

賠償金300万ドルを請求され、長州藩は大打撃を受けました。

連合艦隊に長州藩の砲台を占拠されている写真です。

〈画像:Wikimedia Commons〉

同年、長州藩が京都での主導権を取り戻すべく、「禁門の変(蛤御門の変)」が勃発しました。

結果は、会津・薩摩藩の連合軍に敗れ、長州藩は余計にボロボロなりました

〈画像:Wikimedia Commons〉

〈1864年 第一次長州征討〉

幕府の言う事を聞かない長州藩に対し、禁門の変の報復として、幕府は「第一次長州征討」を始めました。

幕府側のリーダーとして「第一次長州征討」を指揮したのは、「西郷隆盛」です。

〈画像:Wikimedia Commons〉

「西郷隆盛」は禁門の変の首謀者を斬首するという条件で折り合いを付け、幕府に従わない長州藩のメンバーの勢力を削ぎました。(長州藩には幕府に従おうと考える人達も勿論います)

藩内では尊王攘夷は勿論、討幕も無理という雰囲気が漂い、高杉晋作も命の危機を感じて福岡に亡命します。

藩内部でも幕府に従おうと考える者(俗論派)が大多数を占めていました。

外国からも幕府からもボコボコにされているので、当然です。

しかし、こんな状況でも諦めていない男がいました。

それが高杉晋作です。

彼は福岡から山口に戻り、僅かな兵力を率いて俗論派打倒を掲げ、功山寺で挙兵するのです。

〈1864年 功山寺挙兵〉

山口に戻った高杉晋作は俗論派打倒に向けて兵を集めましたが、集まったのはたったの80名ほどでした。

〈功山寺:Wikimedia Commons〉

この80名の中には、初代総理大臣である「伊藤博文」の姿もありました。

〈伊藤博文:Wikimedia Commons〉

降りしきる雪の中、功山寺挙兵の瞬間です。

功山寺を出発した高杉晋作は、「下関会所」と呼ばれる役所にに攻め込み、占領する事に成功します。

この動きを見て、俗論派も黙っていません。

反乱鎮圧軍を下関に差し向けました。

このピンチを救ったのが、高杉晋作が作った「奇兵隊」でした。

〈奇兵隊:Wikimedia Commons〉

「奇兵隊」は長州藩がボコボコにされた後、高杉晋作が次の戦いに備えて、正規軍を補佐する為に組織した軍隊でした。

最初は「奇兵隊」のメンバーも諦めていたのですが、決して屈しない高杉晋作の姿を見て立ち上がりました。

俗論派と戦う奇兵隊の中には「山形有朋」の姿もありました。

〈山形有朋:Wikimedia Commons〉

高杉晋作の決意と熱い想いに惹かれ、次第に多くの志士が味方し、遂に俗論派を打倒に成功しました。

こうして長州藩は再び倒幕の機会を伺う事になるのです。

第二次長州征討と高杉晋作の戦略

1866年、長州藩が再び倒幕派主導に転じた事を受けて、第二次長州征討を決定しました。

第14代将軍・徳川家茂が直々に大坂城に陣取り、数万の兵力を動員して長州に攻め込む気満々です。

〈画像:Wikimedia Commons〉

一方長州藩主である毛利慶親」は徹底抗戦を呼びかけ、高杉晋作を中心とした軍隊で迎え撃ちます。

〈画像:Wikimedia Commons〉

高杉の戦略は非常に柔軟かつ先進的であり、機動力を重視した小規模部隊によるゲリラ戦術を採用し、各地で幕府軍を撃破していきます。

これに対し、幕府軍は寄せ集めの軍だったので士気が低く、長州藩領に侵入する事すら出来ませんでした。

1866年、徳川家茂が大坂城で病死し、第二次長州征討は中止され長州藩は勝利を治めました。

こうして長州藩は圧倒的武力を見せつけました。

討幕はもうすぐそこです。

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