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【新選組とは?】尊王攘夷運動と公武合体合制作!

皆さんこんにちは!

今回は「尊王攘夷運動」と「新選組」を解説していきます。

桜田門外の変は知ってるけど、その後何が起きたの?ってなっている方も多いと思います。

刻一刻と状況が変化するのが幕末ですので、その間の期間に何が起こっていたのか徹底解説します。

↓前回の復習を行いたい方は、こちらをご覧ください!!↓

尊王攘夷運動の広がり

「尊王」とは天皇を大切にすること、「攘夷」とは外国を追い払うことです。

尊王攘夷運動は「井伊直弼」率いる幕府が、外国にビビり天皇を無視して「日米修好通商条約」を結んだ事に対しての反動でした。

「日米修好通商条約」の締結以来、日本の経済は混乱し民衆達も尊王攘夷運動を歓迎していました。

尊王攘夷運動は段々とエスカレートし、「天誅」と称して反対派を暗殺しまくるようになっていました。

「孝明天皇」は外国が嫌いなので攘夷の考え方には基本賛成です。

しかし、天皇の名前を使って好き勝手やってる尊王攘夷派にキレていました。

〈画像:Wikimedia Commons〉

これから先の話は「尊王攘夷派」vs「公武合体派」の戦いなので、頭に入れておきましょう!

公武合体政策の推進

〈1860年 10月 和宮降嫁〉

桜田門外の変で「井伊直弼」が暗殺され、幕府の力は弱まりました。

〈画像:Wikimedia Commons〉

しかし幕府も黙っていた訳ではありません。

幕府の権威を回復するために「公武合体(こうぶがったい)」という政策をとります。

これは、「公」(天皇や朝廷)と「武」(幕府)が力を合わせて国を強くする考えです。

「井伊直弼」が暗殺された後、老中として幕府を率いていたのが「安藤信正」です。

〈安藤信正:Wikimedia Commons〉

「安藤信正」は失墜した幕府の権威を回復させるべく、第14代将軍の「徳川家茂」と孝明天皇の妹である「和宮(かずのみや)」を結婚させて連携を強くし、尊王攘夷派を抑え込もうとしました。

この出来事を「和宮降嫁」と言います。

〈徳川家茂:Wikimedia Commons〉

〈和宮:Wikimedia Commons〉

当然尊王攘夷派には、幕府が権威を回復する為に,天皇を利用し政略結婚していると映ります。

尊王攘夷派の怒りは「和宮降嫁」を考えた「安藤信正」に向きます。

〈1862年 1月 坂下門外の変〉

尊王攘夷派が起こした、「安藤信正」暗殺未遂事件です。

「和宮降嫁」を推進した「安藤信正」を暗殺するべく、「桜田門外の変」と同じように、大名行列を襲いました。

「安藤信正」は背中に軽い傷を負いましたが、命は助かりました。

下の地図の真ん中に「坂下門」があります。

〈坂下門:宮内庁HP〉

しかし背中の傷を理由に、「安藤信正」は老中を辞任します。

こうして幕府の権威は、一層失墜してしましました。

雄藩の台頭

この時期から「雄藩」と呼ばれる力を持った藩が現れます。

長州藩や薩摩藩です。

「坂下門外の変」を受けて、もはや幕府には任せておけないと動き出した人物がいます。

薩摩藩の「島津久光」です。

〈島津久光:Wikimedia Commons〉

薩摩藩は「外様大名」なので、政治に口出しする事は出来ません。

その為朝廷に働きかけ、朝廷が幕府に命令する事で、間接的に幕府を主導しようと考えていたのです。

「島津久光」は公武合体を推進するべく、京都に上洛を開始します。

しかし尊王攘夷派は「島津久光が味方になってくれる」と勘違いして、京都に大集結しました。

京都に到着した「島津久光」は、孝明天皇から尊王攘夷派の鎮圧を命じられました。

〈1862年 4月 寺田屋事件〉

尊王攘夷派が集結していたのは、京都にある「寺田屋」です。

〈寺田屋:Wikimedia Commons〉

この事件の悲しいところは、「尊王攘夷派には薩摩藩のメンバーもいる」という事です。

理解して欲しいのは、尊王攘夷派は1つの考え方なので、同じ藩の人でも公武合体派のメンバーと尊王攘夷派のメンバーがいる事です。

「島津久光」が率いる薩摩藩の公武合体派が、寺田屋にいる薩摩藩の尊王攘夷派と殺し合いになっていしまいました。

ついこの間まで一緒に過ごしていた友達を殺さなきゃいけないとは、なんという虚しさでしょうか。

〈1862年 7月 文久の改革〉

尊王攘夷派を鎮圧した「島津久光」は、「孝明天皇」と改革の内容を纏め、勅使である「大原重徳」と江戸に向かいます。

〈大原重徳:Wikimedia Commons〉

幕府に対する改革を「文久の改革」と言います。

文久の改革の内容

  • ①将軍が京都に上洛する
  • ②一橋慶喜を「将軍後見職」、松平慶永を「政治総裁職」、松平容保を「京都守護職」に任命する

他にも内容はありますが、上記の2つを必ず抑えて下さい。

①将軍が京都に上洛する

公武合体を推進する為の要求です。

この当時は電話なども無いので、江戸と京都で物理的に距離が離れていると、刻々と変化する情勢に対応出来ないと考えました。

将軍と天皇が両方京都にいる事で、連携を強固なものにする狙いがありました。

②一橋慶喜を「将軍後見職」、松平慶永を「政治総裁職」、松平容保を「京都守護職」に任命する

安政の大獄で弾圧された一橋派の勢力を盛り返すのが狙いです。

「将軍後見職」は次期将軍の候補の役職です。

この動乱の時代に、将軍になれる器量がある者は、もはや「一橋慶喜」しかいません。

〈一橋慶喜:Wikimedia Commons〉

「松平慶永」は11代将軍・徳川家斉の息子です。

実は「松平慶永」には、「大老」の打診がありました。

しかし「大老」は井伊直弼のような譜代大名が務めるものです。

「松平慶永」は親藩大名であるため、大老は不適とし断りました。

その代わりに急遽作られたのが、「政治総裁職」です。

〈松平慶永:Wikimedia Commons〉

京都の治安維持の組織は「京都所司代」でしたが、尊王攘夷派からの報復を恐れ、取り締まる事が出来ていませんでした。

幕府は尊王攘夷派の取り締まりに本腰を入れるべく、「京都守護職」を設置しました。

幕府と親しい藩で、強大な軍事力を有しているのが、「会津藩」でした。

「会津藩」の藩主である「松平容保」が就任することで、尊王攘夷派の取り締まりを強化する狙いがありました。

〈松平容保:Wikimedia Commons〉

〈1862年 8月 生麦事件〉

天皇からのお手紙を幕府に渡し、改革の要求を飲ませる事に成功した「島津久光」は、ルンルンで京都に戻ります。

京都に戻る最中、神奈川県の生麦を通っている時に事件は起きます。

「島津久光」の大名行列を、イギリス人が馬に乗って横切ったのです。

「大名行列が通っている時は馬を降りる」という当時の礼儀があるのですが、イギリス人はその礼儀を知らなかったのです。

「島津久光」の家臣が、「無礼者!」と叫びながら、イギリス人を切り殺します。

この事件を「生麦事件」と言います。

〈生麦事件:Wikimedia Commons〉

〈1863年 3月 徳川家茂 上洛〉:新選組 結成

文久の改革により、将軍が京都に上洛する事が決定しました。

3代将軍の「徳川家光」以来、なんと229年ぶりに将軍が京都に上洛するのです。

しかし今から向かう京都は「尊王攘夷派」が蔓延る超危険地帯です。

そこで幕府は将軍の護衛を募集しました。

集まった人達から幕府に忠誠誓って結成された組織こそ、「新選組」なのです。

将軍の上洛が完了した後は、「京都守護職」の部下として京都の治安維持を担いました。

「新選組」のリーダーは「近藤勇」です。

〈近藤勇:Wikimedia Commons〉

〈新選組の旗:Wikimedia Commons〉

〈1863年 7月 薩英戦争〉

イギリスが「生麦事件」の報復をしてきました。

賠償金の要求とイギリス人を切りつけた者の処分が目的です。

薩摩藩は全く悪い事をした認識がないので、戦争になりました。

「薩英戦争」の勃発です。

〈イギリス艦隊と薩摩砲台の戦闘:Wikimedia Commons〉

武力ではイギリスの方が圧倒的に上でしたが、台風の影響でイギリス船に打撃があり、両国甚大を被害を出しながら決着となりました。

薩英戦争の結果、イギリスと薩摩藩はお互いの強さを認めるようになり、薩摩藩はイギリスから武器の援助を受けるようになりました。

下の写真は、講和会議に臨む薩摩藩士です。

〈交渉にあたった薩摩側の藩士たち:Wikimedia Commons〉

〈1863年 8月 八月十八日の政変〉

京都では尊王攘夷派が暴走しており、「孝明天皇」も手を焼いていました。

尊王攘夷派には強力な軍隊がありますが、「孝明天皇」には兵がありません。

そこで目を付けたのが、朝廷と連携を強化していた「薩摩藩」でした。

「孝明天皇」が京都にいる「薩摩藩」に、尊王攘夷派を京都から追放するように命じます。

しかし薩英戦争の影響で、殆どの兵が故郷に帰っていたので戦力不足です。

「薩摩藩」は京都の治安維持を担当していた、「松平容保」率いる「会津藩」と協力する事で、尊王攘夷派を追放に動きます。

「八月十八日の政変」の勃発です。

天皇の命令を受け御所を封鎖し、尊王攘夷派の公家や長州藩を地元に追放しました。

追放されたメンバーで一番有名なのが「三条実美」です。

〈三条実美:Wikimedia Commons〉

「三条実美」を含め、7人の公家が都落ちしたので、「七卿落ち」と言います。

〈七卿落ち:Wikimedia Commons〉

〈1864年 6月 池田屋事件〉

そして「新選組」の初仕事こそ、今回紹介する「池田屋事件」です。

下の写真は池田屋の跡地にオープンしたお店です。

〈現在の池田屋:Wikimedia Commons〉

京都の「池田屋」というお店に、尊王攘夷派が集まっているという情報を聞きつけ、新選組が襲撃し一網打尽にしました。

この功績によって、新選組は世間に名を知らしめる事が出来たのです。

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