皆さんこんにちは、パルです!
今回は南北朝時代の終わりと足利義満の政治を解説していきます。
長い戦いを終わらせ、室町幕府の全盛期を築いた足利義満の政治を見ていきましょう!
全国に広がった長引く戦い
前回の復習ですが、足利尊氏は1338年に征夷大将軍となり、室町幕府を開きました。
一方京都から避難した後醍醐天皇は奈良県の吉野で政治を開始し、京都と奈良に2つの朝廷が存在する南北朝時代が始まりました。
南朝と北朝の戦いは、単なる天皇同士の争いではなく、日本全国を巻き込む戦乱となりました。
各地の武士達はどちらに味方するかを選ばされ、戦いが長期化しました。

楠木正成(上の写真)や新田義貞(下の写真)など、南朝を支えた武将たちも戦いの中で命を落とし、北朝の足利尊氏の病死したりと、戦いを始めた当事者達が亡くなっても尚、戦いは終わりませんでした。

南北朝の統一と足利義満
争いがようやく終わるのは、戦いが始まって60年近く経った1392年のことです。

将軍は第二代将軍・足利義詮(上の写真)を経て、第三代将軍・足利義満(下の写真)になっていました。

この年、室町幕府の3代将軍・足利義満が南朝と交渉し、天皇の位を北朝と南朝で交代にするという約束をして、南朝の後亀山天皇(後醍醐天皇の孫)が北朝の後小松天皇に譲位しました。
これにより、朝廷は京都に一本化され、南北朝の動乱はようやく終わりを迎えました。
室町幕府の全盛期を築いた足利義満
足利義満の功績は大きく分けて3つ挙げられます。
①将軍の力を強めた

義満はそれまでバラバラだった全国の武士達をまとめる為、室町幕府の機構を整備しました。
特に有名なのが、将軍の元に「管領(かんれい)(鎌倉幕府で言うと執権みたいな役職)」という将軍支える直属の役職を設置し、地方で力を付けた守護大名と呼ばれる武士達を圧倒的武力で従わせました。
鎌倉府は文字通り、鎌倉を統率する機関です。鎌倉時代のなごりで鎌倉には多くの武士が生活していたので、関東一帯をまとめる機関として鎌倉府を設置しました。
また、義満は「花の御所(下の写真)」という豪華な御殿を京都に作って、幕府運営の拠点とし将軍の権威を高めました。

②日明貿易を開始
鎌倉時代は「元」という国でしたが、室町時代には「明」という国に変わっていました。
義満は明と正式な日明貿易(勘合貿易)を始めました。
当時日本の倭寇(わこう)という海賊が明の貿易船を襲い、品物を強奪していました。(下の写真の左が明の船で、右が倭寇)

明は倭寇を取り締まってくれるなら、「日本と正式な貿易をしたい」と考えていました。
義満はこれに応え、「勘合(かんごう)(下の写真)」という証明書を使って、公式の船だけが中国と取引できるようにしました。

これにより、日本は中国の高級品(絹、書物、陶磁器など)を手に入れ、日本の銅や刀などを輸出して、幕府の収入を強化しました。
③ 金閣寺の建立

正式名称は、鹿苑寺(ろくおんじ)金閣といいます。
元々は義満の別荘として建てられましたが、彼の死後にお寺になりました。
金閣寺は上の階が金箔(きんぱく)で飾られていて、非常に豪華です。(室町時代の建設当初は屋根なども含め、全てに金箔が貼られていたそうです。)
京都の北山という場所に建てられたので、金閣を代表とする豪華な文化を「北山文化」と言います。
最後に
お疲れ様!
今日は足利義満について解説しました。
彼は非常に政治の才能があり、難しいことも上手くこなせる実力がありました。
次回は傾き始める幕府と応仁の乱について解説しようと思います。
それでは次の授業で~