【10分で分かる】元寇(文永の役・弘安の役)

鎌倉時代

皆さんこんにちは、パルです!

今回は二府に渡る元の襲来を解説していきます。

日本史上最大のピンチと言われている、元寇を写真とともに解説していきます!

そもそも元寇(げんこう)とは?

元寇とは1274年の文永の役、1281年の弘安の役の2回に渡り、海外から攻められた事件のことです。

「元」という国が日本を攻めてきたため、「元の襲来=元寇」と呼ばれています。

日本の歴史の中でも特に大きな外国からの侵略事件で、鎌倉幕府やその後の政治に大きな影響を与えました。

元とはどんな国?

元とは中国にあった大きな帝国です。

モンゴル帝国を作ったチンギス・ハン(上の写真)の孫であるフビライ・ハン(下の写真)が、中国を支配して、「元」という国号を名乗りました。

元は当時、世界最大級の広さを持つ大帝国で、中国だけでなく朝鮮半島や中央アジア、ヨーロッパの一部まで勢力を広げていました。

元からすると、地球制覇のついでに、日本も侵略しときますかって感じだった訳です(笑)

日本と元の戦いの始まり

元は日本に服従するように求めてきました。

1271年から何度も手紙を送り、日本に使者を派遣して、「元に従い、貢ぎ物をしなさい」と伝えました。「そうしないと、武力を使うことになる」と脅しの言葉まで入っていました。

しかし、鎌倉幕府の第8代執権・北条時宗(上の写真)はこの要求を何度も無視しました。そして使者を追い返したことで、元は「日本は服従しない敵」と見なすようになりました。

(ちなみに無視した理由は南宋という国が関係あります。南宋は鎌倉幕府と仲が良く、元は南宋も征服しようと考えていたので、鎌倉幕府は手紙をシカトしたようです。)

日本も元の侵略に備え、異国警固番役という九州防衛部隊を配備しました。

一度目の襲来:1274年・文永の役(ぶんえいのえき)

1274年、元は朝鮮の高麗(こうらい)と協力し、大軍を船に乗せて日本に攻め込んできました。

これが第1回戦「文永の役」です。およそ3万の兵が、長崎県の博多(現在の福岡県)に上陸しました。

元軍は、火薬を使った武器「てつはう」(下の写真の中央で爆発しているもの)などを使い、日本の武士たちを驚かせました。

御家人の先頭スタイルは単騎で突撃していくのに対し、元は集団戦法を基本としていたため、御家人は苦戦を強いられました。

しかし、御家人たちは力を合わせて戦い、元軍を押し返します。

元軍はしばらくすると撤退していきました。理由は今回の目的は「偵察と脅し」だったからです。

圧倒的な軍事力を見せつければ、日本は服属するだろうとフビライ=ハンは考えていました。

文永の役の後、元は再び5人の使者を鎌倉幕府に遣わせました。

北条時宗は5人の使者の首を全員切り、対決姿勢を顕わにします。

第2回戦、弘安の役の始まります。

二度目の襲来:1281年・弘安の役(こうあんのえき)

元は本気を出してきました。

今回は前回の5倍の軍隊を準備し、1281年に再び日本を攻めました。これが「弘安の役」です。

今度は東路軍(朝鮮から出発)と江南軍(中国南部から出発)の二手に分かれ、合計で14万人以上の兵を動員しました。

日本では、前回の襲来から警戒を強めており、博多湾沿いに「防塁(ぼうるい)」と呼ばれる石の壁を築いて準備していました。(下の写真)

元軍はこの壁を越えられず、海上での戦いが中心となります。

何人もの人が亡くなる激戦の末、暴風雨(台風)が襲い、元軍は大打撃を受けて撤退します。

多くの兵が海に沈み、日本は再び勝利しました。(ちなみに2011年、長崎県の海底に沈没した元軍の船が発見されました。)

このときの暴風雨は「神風(かみかぜ)」と呼ばれ、日本を守った神の風として語り継がれるようになりました。

当時執権だった北条時宗は、まるで力を使い果たしたかのように、3年後に亡くなりました。

命を懸けて日本を守ってくれた御家人達には、頭が上がりませんね。

最後に

今回は元寇解説しました。

世界征服目前の元を相手に奮戦する、鎌倉時代の御家人の活躍はどうだったかな?

次回は元寇により弱体化した鎌倉幕府の滅亡と、建武の新政を見ていこうと思います。

それでは次の授業で~

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