皆さんこんにちは、パルです!
今回は鎌倉時代のビッグイベントである、承久の乱について解説します。
あまり知られていないですが、日本史の中で天皇側が朝敵に負けたのは、この戦いだけです。
登場人物は誰で、何が変わったのかを写真を見ながら抑えていきましょう!
鎌倉幕府当初の状況を知りたい方は、こちらをご覧ください!
承久の乱が起きる前の日本
承久の乱(じょうきゅうのらん)は、1221年に起きた日本の内乱で、鎌倉幕府と後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)(下の写真)が対立して戦った事件です。

〈画像:Wikimedia Commons〉
(ちなみに後鳥羽上皇は百人一首にも登録されている人なので、気になる人は調べてみてね!)
この戦いは日本の政治の仕組みを大きく変える、きっかけになりました。
鎌倉時代のはじめ、朝廷と幕府という2つの権力がありました。
天皇や上皇は朝廷にいて、昔から日本を治めてきており、一定の権力を握っています。
鎌倉幕府は源頼朝が1192年に開いた、武士による新しい政権で関東にあり、武士たちの力を背景に政治を行っていました。
源頼朝が亡くなったあと、幕府の実権は北条氏が握るようになります。
理由は北条政子が頼朝の奥さんだったからです。

〈画像:Wikimedia Commons〉
頼朝の死後、将軍は頼朝の子、源頼家(よりいえ)(上の写真)・源実朝(さねとも)(下の写真)となりますが、どちらも早くに命を落とし、頼朝の血筋が途絶えてしまします。

〈画像:Wikimedia Commons〉
その中で実権を握ったのが北条政子の兄・北条義時(ほうじょうよしとき)(下の写真)でした。

〈画像:Wikimedia Commons〉
なぜ承久の乱が起きたのか?
朝廷側では、後鳥羽上皇が朝廷の権力を取り戻したいと考えていました。
頼朝が作った幕府が政治の実権を朝廷から奪い、好き勝手やってる事は許せないことでした。
頼朝の血筋が途絶えた今こそ、政治の実権を取り返すチャンスだと思い、後鳥羽上皇は挙兵するのでした。
それが1221年の「承久の乱」です。
後鳥羽上皇は幕府の実質的なトップである、北条義時を討つように全国の武士たちに命令します。
しかし上皇の予想に反して、ほとんどの武士たちは幕府側につきました。その理由は、幕府が武士の生活や地位を守っていたからです。
前回の授業でもやった、御恩と奉公の関係です。
御家人は将軍に忠誠を誓う「奉公(ほうこう)」として戦いや仕事を手伝い、そのかわりに将軍から「御恩」として土地や役職を貰っていました。
この関係があったからこそ、上皇の命令よりも自分たちを支えてくれる幕府に忠誠を誓ったのです。
朝廷が兵をあげたように、幕府も朝廷に対して討伐軍を送りました。
この討伐軍は強く、あっという間に京都に攻め入り、上皇側の軍を打ち破りました。
こうして、承久の乱は幕府の圧勝に終わりました。
承久の乱の戦後処理
幕府は後鳥羽上皇を隠岐島(現在の島根県にある島)に流し、他の上皇や貴族も処罰しました。(下の図の一番上にある丸い島です。)

そして京都には「六波羅探題(ろくはらたんだい)」という役所を置き、朝廷の動きを監視するようにしました。(下の図をチェック)

さらに、朝廷の味方をした貴族や武士の土地を取り上げ、それを幕府に従った武士たちに「御恩」として分け与えました。
これによって、幕府の力は全国に広がり、武士が日本の支配者として完全に認められるようになりました。
受験生の方へ
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文章が虫食い形式になっており、虫食いの[]の中に星1〜3が書かれていて、一目で単語の重要度分かります。
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