こんにちは、パルです!
今回は古墳時代の人々の生活を見ていきます。
私の勝手なイメージですが、古墳時代って教科書見ても、古墳が造られたんだなぁとしか思わなくないですか?(笑)
当時の状況を知ると、古墳時代のイメージが変わります。
とってもユニークな古墳の謎に迫ります!
↓弥生時代からの流れを知りたい方は、こちらをご覧下さい!!↓
古墳時代の概要
〈古墳時代の始まり〉
古墳時代の始まりは明確には分かっていません。
当時の様子が分かる書物が無いからです。
日本には文字が無かったので、中国の歴史書から日本の様子のヒントを貰っています。
しかし当時中国は戦争中で、歴史書を書いている暇は無かったみたいです。
空白の4世紀を過ぎると奈良県(大和国)を中心に大きな古墳が出現しました。
突如現れルーツなどが分からないので、古墳時代の政権を「大和政権」と呼んでいます。
〈古墳が作られ始めた理由〉
古墳が作られ始めた理由は、「人口増加により人々の交流が増え、道が整備され始めたから」です。
ん、どういうことってなりましたよね。(笑)
弥生時代に「稲作」が始まり、安定的に食料を手に入れられるようになりました。

〈稲作:Wikimedia Commons〉
人々の寿命は徐々に延び始め、人口が増加していきました。
人が増えて日本の国同士で交易が盛んになると、道を整備する必要が出てきました。(デコボコ道よりも舗装された道の方が良いですよね)
道を整備すると余計な土(残土)が出ますが、道を整備する度に残土でいっぱいになります。
当時の権力者は残土を使って、大きなお墓を作らせようと考えました。
このエコの考えこそ、古墳時代の始まりです。
古墳時代の前半
〈竪穴式石室〉
古墳という大きい建築物は、それ自体で権威付けになりますし、土のリユースも出来ます。
前期の古墳では「前方後円墳」という、鍵穴の形をした古墳が多いです。

〈前方後円墳:Wikimedia Commons〉
「方」は四角って言う意味があるので、「四角い方が前で、丸い方は後ろ」というのも覚えておきましょう。
亡くなった人を埋葬のする空間を「竪穴式石室」と言います。
古墳の丸い部分に棺桶を入れて、上から土で被せるという方法でした。


〈森将軍塚古墳館の竪穴式石室:Wikimedia Commons〉
「竪穴式石室」は一人用の墓で、石室を上から塞いだら二度と開けません。
〈埴輪〉
古墳には「埴輪」や「副葬品」なども一緒に葬られました。
「権力の大きさ」や「死後の世界の御供」の意味合いを込めて「埴輪」が埋葬されたとも考えられています。
埴輪には「円筒埴輪」と「形象埴輪」があります。

〈円筒埴輪:Wikimedia Commons〉
「形象埴輪」には、舟や馬、人など、様々な形をした埴輪があります。

〈円筒埴輪:Wikimedia Commons〉
また副葬品にも注目です。
副葬品には「三角縁神獣鏡」や「勾玉」などの「司祭者的性格」を表すタイプと、「甲冑」や「弓矢」など「武人的性格」を表すタイプがあります。

〈三角縁神獣鏡:Wikimedia Commons〉

〈勾玉:Wikimedia Commons〉
古墳時代前期は司祭者的な副葬品が多く、中期に移行すると武人的な性格の副葬品が多くなります。

〈甲冑:Wikimedia Commons〉
古墳時代の後半
〈横穴式石室〉
古墳時代の後半になると、道がある程度整備されて残土も出なくなり、古墳はどんどん小さくなりました。
埋葬方法も変わり、「横穴式石室」が主流になります。


〈文殊院西古墳の横穴式石室:Wikimedia Commons〉
「横穴式石室」は石室の出入り口を塞ぐ石や土を取り除いて、何度でも出入り可能です。
複数人の埋葬を前提に作られていました。
人が亡くなる度に棺桶を追加で入れていく形式に変化する事で、少ない土で多くの人が埋葬できるように工夫しているのです。
古墳の形も「前方後円墳」から「八角墳」や「円墳」など小さく変化していきました。

〈八角墳:Wikimedia Commons〉
覚えてほしい古墳を表にしました!
| 古墳名 | 時期 | 説明 |
|---|---|---|
| 箸墓古墳(はしはか) | 3世紀中頃 | 奈良県桜井市。 最古級の前方後円墳とされ、卑弥呼の墓との説あり。 全長約280m。 |
| 大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳) | 5世紀中頃 | 大阪府堺市。 世界最大級の前方後円墳(全長約486m)。 ヤマト政権の権威を象徴。 |
| 誉田御廟山古墳(応神天皇陵古墳) | 5世紀前半 | 大阪府羽曳野市。 全長約425mの前方後円墳。 仁徳陵に次ぐ規模。 |
| 稲荷山古墳 | 5世紀後半 | 埼玉県行田市。 鉄剣に「獲加多支鹵大王(ワカタケル=雄略天皇)」の文字があり、ヤマト政権の広がりを示す。 |
| 江田船山古墳 | 5世紀後半 | 熊本県和水町。 鉄刀に金象嵌で「獲□□鹵大王」の文字があり、稲荷山古墳と並んで雄略天皇を指すと考えられる。 |
| 石舞台古墳 | 6世紀初頭 | 奈良県明日香村。 方形の巨大横穴式石室をもつ。 蘇我馬子の墓と言われている。 |
| 岩戸山古墳 | 6世紀前半 | 福岡県八女市。 筑紫君磐井(つくしのきみ いわい)の墓とされる前方後円墳。 磐井の乱(527年)の首謀者。 |
少しずつ補足していきます。
「箸墓古墳」は「卑弥呼」の墓と言われています。
「纏向遺跡」の中の古墳です。

〈箸墓古墳:Wikimedia Commons〉
「大仙陵古墳」は「世界で一番大きいお墓」です。
2番目は「ピラミッド」、3番目は「秦の始皇帝陵」です。
「仁徳天皇」のお墓だと言われていますが、実際は分かっていません。

〈仁徳天皇:Wikimedia Commons〉

〈大仙陵古墳:Wikimedia Commons〉
「稲荷山古墳」は大和政権の勢力範囲が、関東まで及んでいた事を示す古墳です。
「獲加多支鹵大王」と刻まれている鉄剣が出土しました。

〈稲荷山古墳出土鉄剣:Wikimedia Commons〉
大和政権で使われている「大王」の称号が、埼玉県で発見されているのが注目ポイントです。

〈稲荷山古墳:Wikimedia Commons〉
「江田船山古墳」は「稲荷山古墳」とセットで覚える古墳です。
「稲荷山古墳」と同じく「獲加多支鹵大王」と刻まれている鉄剣が出土しました。

〈江田船山古墳出土鉄剣:Wikimedia Commons〉
「獲加多支鹵大王」=「雄略天皇」を指します。
「江田船山古墳」は熊本にあるので、大和政権の勢力範囲が九州まで及んでいた事を示す古墳です。

〈江田船山古墳:Wikimedia Commons〉
「石舞台古墳」は古墳時代から飛鳥時代にかけての権力者、「蘇我馬子」のお墓だと言われています。
大和政権の権力者なので、古墳も奈良県にあります。

〈石舞台古墳:Wikimedia Commons〉
大和政権に反乱を起こした「筑紫君磐井」のお墓です。
「筑紫君磐井」は九州北部に勢力を持っていたので、福岡県に「岩戸山古墳」はあります。

〈岩戸山古墳:Wikimedia Commons〉
古墳時代の新しい文化
〈太占の法〉
「太占(ふとまに)の法」=「獣骨(主に鹿)に傷を付けて火で焼き、亀裂の入り方で吉凶などを判断する占い」を指します。

〈太占の法:Wikimedia Commons〉
左が占いの結果を調べる板で、右が鹿の肩甲骨です。
鹿の骨のヒビの入り方によって、占いの結果が変わります。
鹿を狩った後の再利用を考えて、始まったのかもしれませんんね。
〈盟神探湯〉
「盟神探湯(くかたち)」=「熱湯に手を入れ、皮膚がただれるかどうかで審議を確認する裁判」を指します。
個人的な感想ですが、頭おかしいと思います(笑)
「日本書紀」には「正しい者は火傷せず、罪のある者は大火傷を負うとされる」と記述がありますが、どう考えても火傷します。
火傷しなかった例も記載されていますが、ただ熱湯の温度が低かっただけだと思います。
どんな発想をしたら、この裁判の方法に辿り着くのでしょうか。
〈禊〉
「禊(みそぎ)」=「罪や穢れを落とし自らを清らかにする事を目的とした、神道における水浴行為」を指します。
自身の体を清浄な水に浸ける事により、心身の罪や穢れを洗い流せると信じられてきたのです。
仏教における「滝行」も似た意味かもしれませんね。
〈祓〉
「祓」=「神道の宗教行為で、罪・穢れ・災厄などの不浄を心身から取り除く神事・呪術」を指します。
「禊(みそぎ)」と似ていますが、「禊」は水が必ず用いられます。

〈伊勢神宮内宮の年越大祓:Wikimedia Commons〉
古墳時代の「祓」の方法が、現在と同じだったかは不明です。
渡来人の登場
日本に初めて渡来人が来たのは、稲作を伝えた弥生時代だと言われています。
古墳時代に渡来人は政権運営の人材として、重宝されました。
学校では暗記を強要されるかもしれませんが、ここでは1つずつ見ていきましょう。
〈論語・千字文・出納・養蚕・機織〉:応神天皇期
「王仁(わに)」が百済より渡来し、「論語」・「千字文」を伝えました。
「西文氏(かわちのふみうじ)」の祖とされています。

〈王仁:Wikimedia Commons〉
「論語」=「儒教の経典である経書の一つで、朱子学における四書の1つ」を指します。
現代でいう、道徳の教科書みたいなものです。

〈論語:Wikimedia Commons〉
「千字文」=「子供に漢字を教える為の教科書」を指します。
全て異なる1000の文字が使われています。

〈千字文:Wikimedia Commons〉
「阿知使主(あちのおみ)」が出納を伝えました。
出納とは財務を指しています。
「東漢氏(やまとのあやうじ)」の祖と言われています。
どこからの渡来人なのか、明確な記載がありません。
「弓月君(ゆづきのきみ)」が百済より渡来し、「養蚕」・「機織」を伝えました。
「秦氏(はたうじ)」の祖とされています。

〈弓月君:Wikimedia Commons〉
「養蚕」=「カイコ(蚕)を飼って、その繭から生糸(絹)を作る技術」を指します。
生糸は非常に質が良く、現代でも重宝されています。

〈養蚕台:Wikimedia Commons〉
「機織(はたおり)」=「糸を織物に織りあげること」を指します。
下の写真は、糸を織物に織りあげる「織機」です。

〈織機:Wikimedia Commons〉
「弓月君」は糸の採集から、服の作成までの一連の作業を日本に伝えてくれた人物なのです。
〈儒教・仏像〉:継体天皇期
「五経博士(ごきょうはかせ)」=「儒家の経典である五経(詩・書・礼・易・春秋)の先生」を指します。
513年に百済から渡来し、儒教を伝えてくれました。
「司馬達等(しばだっと)」が百済から来日し、仏像の礼拝を教えてくれました。
仏教の伝来は538年 or 552年なので、あくまで個人レベルの仏教です。
「司馬達等(しばだっと)」の孫は、飛鳥文化の超重要人物「鞍作止利(くらつくり の とり」です。
↓飛鳥文化を解説しています、こちらもご覧ください!!↓
〈須恵器〉
「須恵器(すえき)」=「朝鮮半島の技術から作られた、灰色で硬い土器」を指します。

〈須恵器:Wikimedia Commons〉
丈夫で硬く仕上げる為に、窯の中で1000度〜1200度の高温で熱します。

〈須恵器の登り窯:Wikimedia Commons〉
〈土師器〉
「土師器(はじき)」=「弥生土器の流れを汲んだ、素焼きの土器」を指します。
基本的に茶色ものが多いです。

〈土師器:Wikimedia Commons〉
「須恵器」と同時期に使われ始め、どちらも日常的に使われていました。
ただ「須恵器」の方が丈夫なので、実用性で見ると「須恵器」に軍配が上がります。
しかし値段的には、似たようなものだそうです。
「埴輪」も「土師器」の一種です。
受験生の方へ
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日本史一問一答【完全版】3rd edition [ 金谷 俊一郎 ]
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日蓮は[★★]教が仏法の正しい教えである事を悟り、
[★★★]を唱える事によって救われると説いた。
文章が虫食い形式になっており、虫食いの[]の中に星1〜3が書かれていて、一目で単語の重要度分かります。
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さぁ、日本史を楽しみましょう!




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