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【足利義政】応仁の乱と戦国時代の幕開け!

皆さんこんにちは!

今回は「応仁の乱」を解説します。

応仁の乱は非常にややこしいので、深追いはあまりお勧めしません。

この記事では、受験に出てくる内容に絞ってお伝えします。

応仁の乱により京都の町の焼き払われ、室町幕府の権威を弱体化させ、日本各地で統率が取れなくなっていきました。

それでは戦国時代の幕開けを見ていきましょう!

↓応仁の乱以前の情勢を確認したい方は、こちらをご覧ください!!↓

足利義政の治世

〈1449年 4月16日 足利義政 征夷大将軍に就任〉

1443年に第7代将軍の「足利義勝」が、「赤痢」に罹り病死してしまいました。(満9歳)

後継者として選ばれたのが「足利義勝」の弟である、第8代将軍「足利義政」です。

〈足利義政:Wikimedia Commons〉

〈1454年~1482年 享徳の乱 〉

関東で起きた戦乱です。

一般的には「応仁の乱」から戦国時代の始まりと言われていますが、専門家の中では「享徳の乱」が戦国時代の始まりと唱える方もいるようです。

「鎌倉公方」vs「関東管領」の争いで、他の勢力も加勢してくるので、戦いが長期戦になります。

関東が一足先に戦国時代に突入する様子を確認していきましょう!

〈1454年 12月27日 上杉憲忠 暗殺〉:享徳の乱 第1ラウンド

「鎌倉公方」の「足利持氏」が「永享の乱」で自害に追い込まれました。

後継者は息子の「足利成氏(しげうじ)」です。

〈足利成氏:Wikimedia Commons〉

「関東管領」の「上杉憲実」は政界を引退したので、息子の「上杉憲忠」が後継者です。

「足利成氏」と「上杉憲忠」はとにかく仲が悪いです。

理由は「永享の乱」で父親同士が争っていたからです。

「足利成氏」は父を殺されているので、「上杉憲忠」が嫌いでした。

こうして禁断の一手に出ます。

「足利成氏」が「上杉憲忠」を暗殺するのです。

「享徳の乱」開戦です。

今までの争いは、幕府軍の圧倒的兵力で反乱を鎮めてきました。

しかし「足利成氏」がめちゃくちゃ強いのです。

向かってくる上杉軍に、連戦連勝を重ねます。

〈1455年 古河公方 成立〉享徳の乱 第2ラウンド

「足利成氏」の軍勢が上杉軍を追いかけ、鎌倉から北上し「古河」に陣を張りました。

「足利成氏」が北関東へ北上した機会を狙って、幕府軍が鎌倉に差し向けられます。

「足利成氏」の味方が鎌倉で奮戦しますが敗北し、鎌倉を放棄します。

「足利成氏」は鎌倉に戻れなくなったので、以降は「古河」を本拠地として活動していきます。

「古河」は鎌倉公方がいるので、「古河公方」と言います。

〈1460年 堀越公方 成立〉享徳の乱 第3ラウンド

「鎌倉」に「鎌倉公方」が不在となったので、幕府は新しい「鎌倉公方」を派遣します。

その人物こそ「足利政知」です。

「足利政知」は「足利義政」の異母兄にあたります。

しかし鎌倉に向かっているはずの「足利政知」が、伊豆あたりで進軍を止めてしまいます。

なぜ鎌倉に入らなかったのかは、よく分かっていません。

「足利政知」は「堀越」に拠点を移し活動を始めたので、「堀越公方」と呼ばれています。

〈1482年 和睦 成立〉享徳の乱 第4ラウンド

「堀越公方」の成立の後、上杉氏内部で仲間割れが発生し、膠着状態に入りました。

各地で「足利成氏」との小競り合いが発生しましたが、どの戦いも戦況を動かすものではありません。

長引く戦いに和睦の機運が高まり、遂に実現します。

結局「古河公方」も「堀越公方」も現状維持のまま、戦いを終えるのです。

〈1467年 応仁の乱 〉:戦国時代の始まり

遂に戦国時代の幕開けとなる戦いが始まります。

「応仁の乱」を一言で表すと、「将軍の跡継ぎ争い」です。

今までも「将軍の跡継ぎ争い」は起こりましたが、今回は将軍家の軍事力を凌ぐ「守護大名」が参戦します。

「守護大名」の中でも今回覚えてほしいのは、「畠山氏」・「細川氏」・「細川氏」・「山名氏」です。

「畠山氏」・「細川氏」・「細川氏」は「管領」を務められる家柄ですよね。

「山名氏」は侍所を務められる家柄です。

「守護大名」が東西に分かれて激突するので、登場人物は確認必須です。

受験に出る箇所に絞って解説するので、ついてきてください!

経緯

「足利義政」には「日野富子」と結婚していましたが、暫く子供に恵まれませんでした。

〈日野富子:Wikimedia Commons〉

なので弟の「足利義視(よしみ)」を後継者に指名していました。

〈足利義視:Wikimedia Commons〉

しかし「日野富子」との間に息子の「足利義尚」が生まれると話が変わります。

「日野富子」は当然自分の息子である「足利義尚」を次の将軍にしたいと思います。

〈足利義尚:Wikimedia Commons〉

こうなると「足利義視(弟)」vs「足利義尚(息子)」は避けられません。

この争いに「守護大名」が参戦します。

次は「守護大名」の状況を見てみましょう。

「畠山氏」の内紛

将軍家と全く同じパターンの争いです。

「畠山氏」の当主は「畠山持国」でした。

「畠山持国」は子供に恵まれなかった為、弟の「畠山持富」を後継者に指名していました。

しかし「畠山持国」に「畠山義就」という息子が生まれて、話が変わります。

〈畠山義就:Wikimedia Commons〉

「畠山持国」が「畠山義就」に家督の継承者を変更しましたが、一部の家臣団が納得しませんでした。

「畠山持富」は1452年に亡くなってしまうので、その息子の「畠山政長」が家臣団に担がれます。

こうなると「畠山政長(弟の息子)」vs「畠山義就(息子)」は避けられません。

「斯波氏」の内紛

「養子」vs「養子」の戦いです。

「斯波氏」の当主は「斯波義健」です。

「斯波義健」の養子である「斯波義敏」が後継者と指名されていました。

〈斯波義敏:Wikimedia Commons〉

しかし「斯波義敏」が家臣の対立し、家督を没収されてしまします。(追放された)

「斯波義敏」の代わりに「斯波義廉」を養子として、家督を相続させます。

〈斯波義廉:Wikimedia Commons〉

しかし追放された「斯波義敏」は諦めが悪く、「斯波義廉」と対立します。

「斯波義敏」vs「斯波義廉」に発展します。

「細川氏」vs「山名氏」

この2つの家は親戚関係です。

嘉吉の乱を鎮圧した「山名宗全」は、管領を務める「細川勝元」と義理の親子です。

〈山名宗全:Wikimedia Commons〉

〈細川勝元:Wikimedia Commons〉

学生の皆さんはピンと来ないかもしれませんが、「義理の父」と「娘婿」は不仲になりやすいです。

分かりやすく言えば、「彼氏が彼女のお父さんと喧嘩しているイメージ」です(笑)

「守護大名」の家督争いに便乗し、彼らも参戦します。

「細川勝元」は「足利義視」サイドに就き、「山名宗全」は「足利義尚」サイドに就きました。

形式上、「山名宗全」と「細川勝元」の2人が総大将の扱いになります。

勢力図

西軍

  • 畠山義就
  • 斯波義廉
  • 足利義尚
  • 日野富子

東軍

  • 畠山政長
  • 斯波義敏
  • 足利義視

全国の武士達や幕府の要職達も、自分の利益の為に各地で争いに参加します。

「応仁の乱」開幕です。

〈応仁の乱:Wikimedia Commons〉

結果

細川側と山名側に分かれて約10年間戦い、「山名宗全」と「細川勝元」はどちらも死去してしまいます。

それぞれの家の後継者である「山名政豊」「細川政元」が和解した事で、「応仁の乱」は終結しました。

〈細川政元:Wikimedia Commons〉

肝心の次期将軍は「足利義尚」で決定しました。

しかし政治の重要事項は「足利義政」が指示する事になり、これだけの戦いを起こしても、大して幕政に変化はありませんでした。

しかし「応仁の乱」が終わっても全国に波及した争いは各地で続き、日本は戦国時代に突入するのです。

足利義尚の治世

〈1473年 12月19日 足利義尚 征夷大将軍に就任〉

「応仁の乱」の結果、「足利義尚」が第9代将軍として決定していました。

「足利義政」が「足利義尚」に将軍職を譲り大御所になります。

しかし結局「足利義政」が政治を執っているので、「応仁の乱」は殆ど意味が無かった戦いになってしまいました。

〈1485年 山城国一揆

経緯

「山城国」は「応仁の乱」で戦闘していた「畠山氏」の領国です。

〈山城国:Wikimedia Commons〉

「応仁の乱」が終結した後も各地で守護大名同士の小競り合いは続いています。

「応仁の乱」の最中はずっとお米を徴収されており、農民達は生きていくのがやっとの生活でした。

「畠山氏」は依然として、「畠山義就」と「畠山政長」の争いが続いていて、農民たちの生活は苦しいままです。

こうして農民達の我慢が限界に達し、一揆へと発展するのです。

結果

農民達の要求は「畠山氏」の退去です。

一揆以降、「畠山氏」が「山城国」に立ち入るのを禁止したのです。

「畠山義就」と「畠山政長」はどちらも争いで疲弊しており、この要求を飲みました。

以後8年間は農民達で自治が行われるようになります。

〈1488年 加賀の一向一揆

「加賀」=「加賀国」を指します。

〈加賀国:Wikimedia Commons〉

「一向」=「一向宗(浄土真宗)」を指します。

「浄土真宗」は鎌倉時代に「親鸞」が開いた仏教の宗派です。

〈親鸞:Wikimedia Commons〉

つまり宗教による一揆です。

一揆と聞くと農民が反乱を起こすイメージが強いと思いますが、実は違います。

「揆(はかりごと)を一にする」という意味で、同じ目標の為に集まった人々を指します。

つまり農民でも武士でもお坊さんでも、同じ目標の為に集まり反抗すれば、一揆なのです。

日本史上最大と言われる「一向一揆」を確認していきましょう!

経緯

「加賀国」では守護の「富樫政親(とがしまさちか)」が支配していました。

「富樫家」に内紛が生じると、「蓮如」率いる一向宗に助けを求めました。

この当時は宗教勢力も武装しており信者も多いので、大きな軍事力になる訳です。

「一向宗」のお陰も有り内紛を制した「富樫政親」ですが、今度は大きくなり過ぎた「一向宗」を警戒するようになります。

そして「一向宗」の弾圧を始めるのです。

「富樫政親」vs「一向宗」の開戦です。

結果

「一向宗」は「富樫泰高」を守護に擁立して、10万の軍勢で「高尾城」に籠もる「富樫政親」を攻撃します。

そして自害に追い込むのです。

「富樫泰高」は飾りなので、実際は一向宗が「加賀国」の運営を行っていきます。

1580年に「織田信長」に敗れるまでの約100年間、「加賀国」は「百姓の持ちたる国」と呼ばれました。

〈1489年 3月26日 足利義尚 死去〉

「足利義尚」は自分で政治を執りたいとずっと思っていました。

しかし父の「足利義政」が政治の実権を離さないので、疎ましく思っていました。

これから沢山の政策を実行しようと大きな希望を持った矢先、25歳の若さで病死しました。

死因は過度なお酒による「脳溢血」だと言われています。

昔はお酒で亡くなる方が本当に多いですね。

〈1490年 1月7日 足利義政 死去〉

「足利義尚」の後を追う様に、「足利義政」が54歳で亡くなりました。

死因は「脳卒中」だと言われています。

「足利義政」は晩年政治に意欲を示したので、「足利義満」の真似をして、別荘で政治を執るのを理想としました。

その別荘こそ、「慈照寺・銀閣」です。

〈慈照寺・銀閣:Wikimedia Commons〉

しかし「足利義政」の野望は叶う事は無く、「慈照寺・銀閣」の完成を目前にして亡くなりました。

「銀閣」は創建当時から、銀箔が貼られていない事が明らかになっています。

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