【10分で分かる】応仁の乱と戦国時代の幕開け

室町時代

皆さんこんにちは、パルです!

今回は足利義満の死後から、応仁の乱までを解説します。

応仁の乱は非常にややこしいので、詳しいことは高校で習いますが、中学生にも分かるように、なるべく簡略化してお伝えします。

それでは戦国時代の幕開けを見ていきましょう!

足利義満の死後の室町幕府(応仁の乱が始まるまでは高校の範囲なので興味がある人だけ読んでね)

義満の後を継いだのは息子である、第四代将軍・足利義持(よしもち)です。

義持は父の義満と仲が悪かったので、義満が行っていた中国との貿易を止めたりと、逆の政策を実施していました。

しかし義持には子供がいなかったので、義持が亡くなると次の将軍を誰にするかの、後継者問題が浮上しました。

義持には弟が4人いたので、この4人の中でくじ引きが行われることになりました。

こうして第6代将軍になったのが足利義教(よしのり)(上の写真)です。

義教はくじ引きで選ばれた将軍なので、世間からはくじ引き将軍と馬鹿にされていました。

義教は舐められないように、超絶厳しい政治を行います。

歯向かって来た奴はすぐに処刑したり島流しにしたり、ご飯が美味しくなければご飯を持ってきた人をビンタしたりするのは、日常茶飯事でした。

あまりにも厳しかったので人々からは「万人恐怖(ばんにんきょうふ)」と呼ばれるほどでした。

しかし義教は現在の岡山県に勢力を持つ、赤松満祐(あかまつ みつすけ)(下の写真)によって、1441年に暗殺されてしまいます。

これを「嘉吉(かきつ)の乱」と言います。

赤松満祐は次に処罰されるのは赤松だと噂を耳にし、やられる前にやってしまう精神で義教を暗殺しました。

足利義政と応仁の乱

義教の死後、第7代将軍になったのはまだ9歳の足利義勝(よしかつ)(上の写真)でしたが、すぐに亡くなっていしまい、続いて8歳で第8代将軍になったのが足利義政(よしまさ)(下の写真)でした。

義政にはしばらく子どもがいなかったため、弟の足利義視(よしみ)(下の写真)を後継ぎに決めていました。

ところが、奥さんである日野富子(下の写真)との間に息子の義尚(よしひさ)が生まれてしまいます。

日野富子は自分の息子である義尚(下の写真)を次の将軍にしたいと思い、義視と対立するようになりました。

この「どちらを後継ぎにするか」という争いに、大きな力を持った武将たちが加わっていきます。

細川勝元(ほそかわ かつもと)(上の写真)は義尚を応援し、山名宗全(やまな そうぜん)(下の写真)は義視を応援しました。

全国の武士達も自分の利益の為に争いに参加し、1467年、応仁の乱が京都始まりました。(応仁は当時の年号です。)

応仁の乱は細川側と山名側に分かれて戦い11年間続き、この戦いで京都の町は焼けてしまい、室町幕府も機能しなくなっていました。

応仁の乱の結果は、一応山名側の勝利で終わりましたが、裏切りが相次いで敵だったはずの義尚が最終的に第9代の将軍として決まりました。

しかし、大事なことは義政が指示することになり、これだけの戦いを起こしても、大して変化はありませんでした。

しかし応仁の乱が終わっても、応仁の乱につられて発生した武士達の争いは各地で続き、日本は戦国時代に入突入しました。

足利義政と銀閣寺

足利義政は銀閣寺を立てたことでも有名です。

正式名称は慈照寺(じしょうじ)銀閣と言います。

慈照寺の中は畳が敷かれていて、現代の和室の原型になっています。

京都の東山の麓に建てた別荘だったので、「東山文化」と呼ばれるようになりました。

義政はたびたび起こる幕府の問題はシカトしていましたが、文化の才能には秀でていたのです。

最後に

お疲れ様!

応仁の乱はどうだったかな?

非常に登場人物が多く、戦いも長引いて、裏切りも続出したので、結果もよくわからない感じで決着したのが、応仁の乱です。

しかし一度起きてしまった戦いは全国を巻き込み、戦国時代へと突入していくのです。

次回は戦国時代の始まりと戦国大名について解説していきます。

では、次の授業で~

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