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【源氏最後の鎌倉殿】源実朝は誰に殺されたのか?

皆さんこんにちは!

今回は源実朝の暗殺を解説します!

鎌倉幕府の成立も束の間、頼朝から続く血筋が断絶してしまいます。

源実朝の命を狙ったのは皮肉にも、源氏の人物でした。

殺されてしまった悲しい鎌倉殿の末路を詳しく見ていきます!

↓前回の内容はこちらからご覧ください!↓

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源氏の断絶

〈1199年 源頼朝 死去〉

激動の時代を生きてきた「源頼朝」が亡くなりました。

ここで興味深い事実があります。

鎌倉時代の出来事は「吾妻鏡」という書物に書いてあります。

〈吾妻鏡:Wikimedia Commons〉

しかし「源頼朝」が亡くなったページだけが無いのです。

完全に私の予想ですが、何者かに暗殺されたものと思われます。(病気だったらそう書けばいいですからね)

ここから鎌倉幕府の揺らぎが見え始めます。

〈1199年 13人の合議制 開始〉

将軍の独裁を辞めて、有力御家人で話合う方針にしました。(強制的です)

「源頼朝」は圧倒的な尊敬とカリスマ性で幕府を纏めてきました。

しかし息子の「源頼家」は生まれながらに将軍なので、御家人の苦労などを知らず適当な発言も多かったようです。

「13人」なのは多数決などでも、必ず決められるようにする為です。

御家人達は将軍という独裁者が居なくても、幕府は運営出来ると気付いていたのです。

〈1202年 源頼家 征夷大将軍就任〉

「源頼家」が成人したのを契機に将軍になりました。

しかし、権力は「北条政子」のお父さんである「北条時政」が握りました。

〈北条時政:Wikimedia Commons〉

「源頼家」から見て、叔父にあたる人物です。

13人の合議制の中でも「北条時政」は中心的人物になり、源頼家は飾りの将軍になりました。

〈1203年 比企能員の乱〉

権力を掌握しようとする「北条氏」によって、「比企氏」が滅ぼされた事件です。

あまり知られていない人物ですが、源氏が断絶する上で非常に重要な事件です。

詳しく見ていきます。

経緯

「比企能員(ひきよしかず)」は源平合戦の時から源頼朝を支え、源頼家の教育係でもありました。

「比企能員」の娘が「源頼家」と結婚し、「一幡」という子供を授かりました。

「一幡」が将軍になれば、「比企能員」はおじいちゃんとして権力を握れる訳です。

平安時代の外戚関係と同じです。


一方で、「源頼家」には「千幡」という弟がいます。

〈千幡:Wikimedia Commons〉

こちらは「北条政子」の息子なので、「北条時政」が後見人です。

「源頼家」が病気で倒れると、「北条時政」が「千幡」を次期将軍にする為に動きます。

この不穏な動きを「比企能員」が「源頼家」に報告し、「北条時政」の暗殺を計画します。(源頼家的には、弟よりも息子に将軍を継いでほしいのです)

しかしこの計画バレて「比企氏」は滅ぼされ、「一幡」も犠牲になりました。

〈1203年 9月7日 源実朝 征夷大将軍就任〉:源頼家 将軍解任

「比企能員の変」を受け、「源頼家」が将軍職を追放されます。

「千幡」が代わりに将軍職に就き、「源実朝」と名乗りました。

〈源実朝:Wikimedia Commons〉

源頼朝も勿論、飾りの将軍です。

将軍就任時の年齢は12歳です。

〈1204年 7月18日 源頼家 暗殺〉

将軍職を追放された「源頼家」は伊豆の「修善寺」に幽閉されました。

〈修善寺:Wikimedia Commons〉

もはや「源頼家」の側近として戦ってくれる御家人はいなかったのです。

7月18日の夜、「源頼家」が入浴中に、何者かに暗殺されました。

暗殺者は誰かは分かっていませんが、99%北条氏の仕業だと思います。

〈1203年 北条時政 執権・政所別当就任〉

将軍を立てることに成功した「北条時政」は 「執権」を新設して就任し、「政所別当」も兼任しました。

一気に北条氏に権力が集中し始めます。

〈1205年 畠山氏 滅亡〉

この話は非常にややこしいので、家系図を思い浮かべて下さい。

北条時政には「牧の方」という奥さんがいて、娘を生んでいました。

娘の旦那さんは「平賀朝雅(ともまさ)」と言います。

実は「平賀朝雅」は「源頼朝」の養子であり、「平賀朝雅」は源氏の血筋なので、将軍になることは可能でした。

「平賀朝雅」が京都で働いていたのですが、ここで「畠山重忠」の息子である「畠山重保」が登場します。

「畠山重保」が「源実朝」の結婚相手である「坊門信子(ぼうもんのぶこ)」を京都に迎えに行った時、祝いの席で「平賀朝雅」と喧嘩になります。

「平賀朝雅」は畠山が悪口を言った事を、「牧の方」・「北条時政」に報告し、競合して畠山氏を討伐しました。(やってる事が子供過ぎる笑)

〈1205年 北条時政 失脚〉

「北条時政」は「牧の方」と共謀して将軍の「源実朝」を殺害し、平賀朝雅」を新将軍として擁立しようとしました。

「北条政子」がブチ切れ逆に、「北条時政」が引退させられ、伊豆に隠居となりました。

執権には「北条政子」の弟である、「北条義時」が就任しました。

〈北条義時:Wikimedia Commons〉

〈1213年 5月 和田合戦〉

「北条氏」が「和田氏」を滅ぼした事件です。

「和田氏」と言えば「侍所別当」に就任している「和田義盛」です。

北条義時打倒の計画が反北条氏のグループで練られており、そのメンバーに和田一族のメンバーが加担していました。

和田義盛は許してやって欲しいと北条氏にお願いしに行きましたが、結局処罰を受けました。

処罰を受けたメンバーの不満が爆発し、「和田義盛」を担ぎ上げ反乱を起こしました。

戦況は兵力の多い北条氏が優勢で、和田一族は滅びました。

鎌倉駅の隣駅に「和田塚駅」があります。

〈和田塚駅:Wikimedia Commons〉

和田塚駅からすぐの場所に、和田一族戦没地と伝わるお墓があります。

〈画像:Wikimedia Commons〉

非常に無念だったことでしょう。

「和田義盛」が亡くなった事で、「侍所別当」の席が空きました。

「北条義時」が「侍所別当」に就任し、「侍所別当」・「政所別当」・「執権」を兼任し、政治も軍事も掌握しました。

〈1213年 金槐和歌集 編纂〉

北条氏の権力が強化された時代に、青年に成長した「源実朝」は、将軍という役職の無意味さに気付きました。

いつしか和歌に没頭するようになり、1213年に「金槐和歌集」を編纂します。

「金」=「鎌(鎌倉)」

「槐」=「(中国語で)大臣」

意味は上記の通りですが、「源実朝」が右大臣に就任したのは1218年の事なので、なぜ大臣という意味を使ったのかは分かりません。(結果右大臣になったので、分かりやすいですね)

「源実朝」は官位の昇進に執着するようになり、「大江広元」から諫められた事があります。

返答は、「私の代で源氏は途絶えるから、後世に名を残せるように家名を上げたい」でした。

自分の未来を知っているかのような発言に、衝撃を隠せません。

〈1219年 源実朝 暗殺〉

降りしきる雪の中、遂にその時が来ます。

右大臣就任の式典が終わり「源実朝」が鶴岡八幡宮の階段を下りている最中、木の陰から「公暁」という人物が出てきて暗殺しました。

〈公暁:Wikimedia Commons〉

〈鶴岡八幡宮:Wikimedia Commons〉

「公暁」は「源頼家」の次男です。(一幡の弟です)

「源実朝が将軍になったから、父(源頼家)が殺されたので敵討ち」というのが理由です。

その後「公暁」は北条氏によって滅ぼされ、源頼朝から続く血筋は断絶しました。

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