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【満州事変勃発!】昭和恐慌の脱却から五・一五事件を徹底解説!

皆さんこんにちは!

今回は昭和恐慌の脱却から満州事変の勃発までを詳しく見ていきます。

長らく不況に苦しんだ日本でしたが、大蔵大臣の高橋是清が日本を窮地から救いました。

しかし満州の権益を守る為、軍隊が暴走を始めます。

どうして満州事変が起こったのか?何を不満に思ってたのか?を理解する事が、この時代の流れを掴む近道です。

憲政の常道も今回で最終回、詳しく見ていきます!

↓前回の内容はこちらからご覧ください!!↓

第2次 若槻礼次郎 内閣

政権は引き続き立憲民政党です。

「浜口雄幸」の代わりに総裁となった、「若槻礼次郎」が内閣を組織します。

〈若槻礼次郎:Wikimedia Commons〉

彼の時代から、日本は本格的に戦争の時代に突入します。

〈1931年 6月27日 中村震太郎大尉 惨殺事件〉

中華民国に送り込んでいた日本人スパイ「中村震太郎」が、殺害された事件です。

〈中村震太郎:Wikimedia Commons〉

黒竜江省の治入り禁止区域を、農業技師と身分を詐称して調査旅行していました。

〈黒竜江省:Wikimedia Commons〉

スパイだバレて拘束され、かなり惨い殺害のされ方でした。

現役の大尉が殺されたので、陸軍では一大事として捉えられました。

しかし内閣は立憲民政党で協調外交を展開している為、報復などは行いません。

この軟弱外交が陸軍の怒りを買いました。

〈1931年 7月2日 万宝山事件〉

事件の舞台は、中国の長春北西に位置する「万宝山」です。

〈長春:Wikimedia Commons〉

事件の経緯が複雑なので、丁寧に確認します。

経緯

中国に入植中の朝鮮人と、入植に反対する現地の中国人農民の間で「水路」に関する小競り合いが発生しました。

〈朝鮮人が造った用水路:Wikimedia Commons〉

小競り合いを鎮圧するべく動いた日本の警察と、現地の中国人農民が衝突した事件です。

中国人の犯行に対して危機感を覚えた関東軍は、一層武力で支配する必要性を感じました。

中村震太郎大尉惨殺事件と並んで、満州事変のキッカケとなった出来事として紹介される事件です。

事件の波及

事件をきっかけに朝鮮半島で中国人への感情が悪化して排斥運動が起こりました。

〈中国人襲撃事件後の平壌:Wikimedia Commons〉

朝鮮人による中国人襲撃事件が起こり、多くの死者重軽傷者が出てしまいます。

〈1931年 9月18日 柳条湖事件〉:満州事変の始まり

中国遼寧省の柳条湖付近で、南満洲鉄道の線路が爆発により破壊された事件です。

〈中国遼寧:Wikimedia Commons〉

現状の協調外交では満州の権益を守り切れないと考えた陸軍が、自作自演で線路を爆破したのです。

日露戦争後に日本は、遼東半島南部の「関東州」を租借地として支配していました。

「関東州」の防衛の為に軍として、「関東軍」を配置していました。

今回爆破を実行したのも「関東軍」です。

〈爆破現場:Wikimedia Commons〉

外務大臣の「幣原喜重郎」は「不拡大方針」を取りましたが、関東軍はガン無視します。

〈幣原喜重郎:Wikimedia Commons〉

そして犯人を中華民国に仕立て上げる事で、報復として満州全土を占領しました。

占領するにあたり、朝鮮に居る日本軍も動員する徹底ぶりです。

〈物証として提出された中国軍の帽子と小銃:Wikimedia Commons〉

もはや軍部は内閣の命令を聞かなくなっていたのです。

〈1931年 10月 十月事件〉:三月事件の綿密計画版

陸軍のクーデター未遂事件です。

三月事件と目的は殆ど同じです。

クーデターの内容は

「荒木貞夫」陸軍中将を総理大臣として、内閣を組織する

です。

〈荒木貞夫:Wikimedia Commons〉

首相官邸や警視庁を襲撃し政府の要人の暗殺して、自分達の思い通りの内閣を作ろうと考えていたのです。

しかし三月事件と同様、計画が外部に漏れていました。

計画実行の一週間前に一斉検挙され、クーデターは未遂に終わりました。

犬養毅 内閣

満州事変を上手く収集できず、内閣が総辞職しました。

「立憲民政党」の協調外交と真逆の施策を軍が実施しているので、当然と言えば当然です。

「立憲政友会」の総裁の「犬養毅」が総理大臣に選ばれました。

〈犬養毅:Wikimedia Commons〉

〈1931年 12月13日 金輸出 再禁止〉:組閣日と同日

日本が「金本位制」から離脱しました。

昭和恐慌を悪化されている1つの原因として、間違いなく「金本位制」が挙げられます。

国内の紙幣の流通量を削減し、円の価値が上昇するデフレ状態に突入したからですよね。

大蔵大臣に就任した「高橋是清」は即日「金本位制」の離脱を宣言しました。


円を大量に発行する事で価値を半分程に下げ、円安状態を創り出しました。

単純に海外では日本製品が半額で売られているので、飛ぶように売れるようになります。

1933年には「綿織物」の輸出が世界第1位に躍り出て、昭和恐慌から脱出する事になります。

〈綿織物:Wikimedia Commons〉

しかし意図的に為替を操作しているとして、「ソーシャルダンピング」と列強から非難されました。

〈1932年 1月28日 〜 3月3日 第一次上海事変〉

経緯

上海で反日デモが起こり、日本人僧侶が約50名の中国人に襲撃される事件が起こりました。

柳条湖事件を発端とする満州事変への抗日運動の一環です。

当然日本軍が動員され、事件の鎮圧に向かいます。

〈上海で戦う日本軍:Wikimedia Commons〉

中国軍も動員され、軍事衝突に発展しました。

〈戦闘に加わる中国軍:Wikimedia Commons〉

結果

大規模な戦闘に発展し、日本は戦死者約770名・負傷者2,300名以上という損害を出しました。

これほどの大激戦は、日露戦争以来です。

日本軍優位で停戦となりましたが、中国と深い遺恨を残す結果となりました。

以降も日本人が襲撃される事件が勃発し、第二次上海事件をキッカケに全面戦争に突入します。

〈1932年 2月 リットン調査団 来日〉

柳条湖事件により、満州は関東軍に実行支配されています。

中華民国からしてみれば南満州鉄道の爆破など、身に覚えがありません。

そこで国際連盟に相談し、柳条湖事件の真相を調査するように依頼を出しました。

国際連盟から派遣されたのが、「リットン調査団」です。

〈リットン調査団:Wikimedia Commons〉

柳条湖事件の真相を、約半年掛けて調査します。

〈1932年 2月 〜 3月 血盟団事件〉

「井上日召」率いる血盟団が、政財界の重鎮を多数狙った事件です。

〈井上日召:Wikimedia Commons〉

「井上準之助」「團琢磨(だんたくま)」が犠牲になりました。

〈井上準之助:Wikimedia Commons〉

〈團琢磨:Wikimedia Commons〉

「井上準之助」は金輸出解禁でデフレ政策を推し進めた、大蔵大臣だった人物です。

国民には昭和恐慌の根源と映っていた事でしょう。

「團琢磨」は三井財閥の総帥です。

打倒財閥を掲げる貧困層にとって、憎い対象となっていたのでしょう。

経緯

そもそも血盟団とは何なのか?

そのルーツは鎌倉時代発祥の日蓮宗です。

日蓮宗は仏教の一派ですね。

「日蓮」の著書に「立正安国論」があります。

↓日蓮について解説しています、こちらもご覧ください!!↓

「立正安国論」は

人々が日蓮宗を信じず邪法を信じる為、国が滅亡する

と説いています。

自国ファースト・法華経ナンバー1を強烈に信仰し、不況を創る政府を打倒すれば救われると説いていたのです。

え?そんな野蛮な考え支持するの?って思った方もいるかもしれません。

しかし度重なる恐慌から、食糧危機や児童の身売り・リストラを経験した貧困層からは、希望に映ったのです。

極限の状態にある時に宗教にすがりたくなるのは、人間の性なのかもしれません。


「井上日召」は政府の要人を暗殺し国家改造を成し遂げる、「一人一殺」という革命を説きました。

4つの恐慌で苦しむ貧困層が「血盟団」として、「井上日召」の元に集まりました。

〈廷内で深編笠を被る血盟団事件の被告:Wikimedia Commons〉

力で国を変えていくという野蛮な方法が、当たり前となるキッカケの事件でした。

力で国を変えていく行動を「昭和維新」と言います。

〈1932年 3月1日 満州国 建国〉

柳条湖事件より、満州全土が関東軍に占領されていました。

関東軍は武力を背景に、中華民国からの独立を宣言させました。

「元首(満洲国執政)」には清王朝最後の皇帝「愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)」を迎え、完全に中華民国から切り離したのです。

〈愛新覚羅溥儀:Wikimedia Commons〉

トップを日本人にしなかったのがポイントです。

満州人を満州国のトップに据える事で、満州人が建てた国とアピールする狙いがありました。

満州国にはスローガンは

五族協和・王道楽土

です。

「五族協和」=「日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人の助け合い」を表しています。

「王道楽土」=「アジア的理想国家(楽土)を、西洋の武による統治(覇道)ではなく東洋の徳による統治(王道)で造る」という意味が込められています。

日本が侵略した訳では無いと、国外にアピールする狙いがあります。


総理大臣の「犬養毅」は、満州国の建国を承認しませんでした。

満州国の建国を宣言すれば、各国からの批判は免れません。

加えて「犬養毅」は、経済的に満州を支配するつもりだった為、直接の支配は望んでいませんでした。

しかしこの意見が陸軍と真っ向から対立する事になります。

〈1932年 5月15日 五・一五事件〉:憲政の常道 終焉

「井上日召」の影響を受けた海軍青年将校9名が、内閣総理大臣官邸などを襲撃しました。

軍人も「井上日召」の影響を受けていたのです。

理由は

軍人になるのは実家を継げない次男や三男が多く、身寄りがないから

です。

軍人と言っても、不安定な社会の中で孤独に生きる若者です。

国家を改造し不況から脱却するという考え方に影響を受けるのは、もはや当然だったのです。

襲撃により、首相の「犬養毅」が暗殺されました。

〈五・一五事件を報じる朝日新聞:Wikimedia Commons〉

「統帥権干犯問題」の時、「犬養毅」と海軍は協力して、立憲民政党を攻撃していました。

しかし現在「犬養毅」は総理大臣となり、満州国の建国に反対しています。

いつしか海軍は「犬養毅」も邪魔者扱いするようになり、暗殺を実行したのです。


また、度重なる恐慌により貧富の差が拡大した事も、暗殺の理由の1つです。

政党政治と聞くと、農民などの立場が弱い人に寄り添う政治のイメージがあるかもしれません。

しかし与党でなければ政治の運営が出来ない為、有力者や富裕層に賄賂を渡し票を入れてくれるよう頼んでいました。

汚職が蔓延していたのです。

軍部は政党政治では国内を救えないと、薄々気づいていたのです。

〈襲撃直後の首相官邸の様子:Wikimedia Commons〉


話せば分かる

問答無用

「犬養毅」と海軍とのやり取りで有名な一節です。

「犬養毅」の最期の言葉だと思われがちですが、実は違います。

午後5時27分頃に襲撃が始まり、撃たれた後も意識はありました。

医師団から応急処置を受け、生きていたのです。

しかし容体が急変し、11時26分に亡くなりました。

撃たれた直後、

「呼んで来い、いまの若いモン、話して聞かせることがある」

と言っていたそうです。

若者達の希望が失われないよう、最期の最後まで説得するつもりだったのです。

76歳の総理大臣は、若者を真剣に想っていたのですね。

〈犬養毅の葬儀:Wikimedia Commons〉

受験生の方へ

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日蓮は[★★]教が仏法の正しい教えである事を悟り、

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文章が虫食い形式になっており、虫食いの[]の中に星1〜3が書かれていて、一目で単語の重要度分かります。

例題の答えは、★★=法華、=題目、となります。

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 日本史一問一答【完全版】3rd edition [ 金谷 俊一郎 ]

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