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【桓武天皇とは?】平安時代を始めた優れた統治者を紹介!

皆さんこんにちは、パルです!

今回は平安時代初期のスーパースター桓武天皇について紹介します!

約1000年間、都が置かれた京都の土台を作った桓武天皇を学んでいきましょう!

↓平安時代までの流れを知りたい方は、こちらをご覧ください!!↓

奈良時代の終焉

〈781年 桓武天皇 即位〉

「桓武天皇」が第50代天皇として、平城京で即位しました。

本名は「山部親王(やまべしんのう)」と言います。

〈桓武天皇:Wikimedia Commons〉

お父さんは「光仁天皇」です。

〈光仁天皇:Wikimedia Commons〉

「天武天皇」即位以来、長らく天武系の血筋が皇統を継いでいました。

「光仁天皇」は「天智天皇」の孫にあたる人物なので、天智系の血筋だと覚えておきましょう!

〈天智天皇:Wikimedia Commons〉

「光仁天皇」のお母さんは「高野新笠(たかののにいがさ)」と言い、朝鮮半島から来た渡来人の血を引いていたとされる人です。

つまり、「桓武天皇」は、天智系の血筋であり外国のルーツもある、非常に異色の天皇なのです。

「桓武天皇」の即位にあたり批判の声が沢山挙がったので、多くのライバルを排除し権力基盤を固める為に動き始めます。

〈784年 長岡京 遷都〉

桓武天皇が即位した場所は「平城京」です。

「平城京」は天武系の象徴とも言うべき都なので、桓武天皇は遷都を考えたのです。

仏教勢力が強くなりすぎて、政治が上手く機能していなかったという理由もあります。

「藤原種継」を新しい都造営の最高責任者とし、交通の便がいい場所を探させました。

そこで見つけてきたのが、「長岡」の地でした。

桓武天皇は「長岡京」の造営を最優先事項として、急いで作らせました。

〈785年 藤原種継 暗殺〉

造営の最中、「藤原種継」が何者かに暗殺される事件が発生します。

犯人は皇太子の「早良親王」という噂が立ち始めます。

〈早良親王:Wikimedia Commons〉

「早良親王」は無実を主張しましたが、「桓武天皇」は処罰しました。

しかし数日後から、桓武天皇の周りの人が謎の死を遂げ始め、遂には皇后までも亡くなってしまいます。

飢饉や疫病も発生し、桓武天皇の息子も病気にかかります。

占い師に原因を占わせると「早良親王の怨霊」との結果が出ました。

桓武天皇は「長岡京」の造営を中止し、新たな場所を探しにいくのです。

〈792年 健児 採用〉

「健児(こんでい)」=「京都警備の志願者募集制度」です。

「大宝律令」で男性に規定されている税金として、京都の警備の労役は「衛士(えじ)」と言いました。

「衛士」は1年間警備を担当しなければならず、いつ選ばれるか分かりません。

単純に1年間家族の元を離れて労役を課されるので、農民の負担は尋常ではありません。

桓武天皇は「健児」を導入し、志願した人だけが京都の警備をする制度に変えました。

「衛士」を任命された人は「調・庸・雑徭」が免除されるので、独身男性は「衛士」の方が楽で志願する人も多かったようです。

平安時代の始まり

〈794年 平安京 遷都〉

新しい都こそ、現在の京都駅周辺の土地でした。

西に「桂川」、東に「鴨川」が流れる平安京は、水運の便も非常に良く、都に最適だったのです。

平安京に遷都した事により、平安時代の幕開けです。

〈平安京の模型:Wikimedia Commons〉

天武系の血筋の否定と、仏教による政治を刷新する為の新しい都です。

〈804年 坂上田村麻呂 征夷大将軍に就任〉

桓武天皇は政治や都のことだけでなく、「日本を豊かにする」為に、戦いにも力を入れました。

東北地方では「蝦夷(えみし)」と呼ばれる人々が暮らしていて、独立した国のような感じになっていました。

朝廷の命令に従わず、税金を納めない事も多かったようです。

桓武天皇は軍隊を送って東北地方を治め、税収を強化しようとしました。

この戦いで活躍したのが、「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」です。

〈坂上田村麻呂:Wikimedia Commons〉

「坂上田村麻呂」は日本で初めて「征夷大将軍」になった人物です。

「征夷大将軍」は桓武天皇が新しく新設した役職であり、当時の法律である「大宝律令」には記載されていません。

律令に記載されていない役職を「令外官(りょうげのかん)」と言います。

「征夷大将軍」は現在、武士のトップという意味合いが強いと思います。

「征夷」は「蝦夷を征伐する」という意味が込められているので、当時はただの1つの役職に過ぎませんでした。

日本最初の幕府を開いた源頼朝が「征夷大将軍」の役職を天皇に求めたのは、「令外官」だからです。

「律令」という「貴族が守るルール」から一線を画す「令外官」だからこそ、武士の自分にふさわしいと考えていたのです。

〈797年 勘解由使 設置〉

当時の政治の仕組みとして、各国に「国司」を派遣していました。

詳しい内容は分かっていませんが、「国司」の交代の時に、色々トラブルが発生していました。

国司交代の引継ぎの際、トラブルが無いように監視する「勘解由使」という役職を設置しました。

「勘解由使」も「征夷大将軍」と同じく「令外官」です

〈804年 最澄・空海 遣唐使として派遣〉

平城京時代の政治に口出しする仏教を避け、正しい仏教が広める事を狙いとした派遣です。

最澄や空海を遣唐使として中国に勉強させに行き、「密教」と呼ばれる厳しい修行を要する仏教を持って帰ってこさせました。

旧仏教に対抗し厳しい仏教を流行らせ、修行を必要とさせる事で政治と仏教の分離を図りました。

↓最澄と空海については、こちらで詳しく解説しています!!↓

〈805年 徳政論争〉

「藤原緒嗣」「菅原真道」に、桓武天皇の政治について真剣に討論させた出来事です。

〈藤原緒嗣:Wikimedia Commons〉

〈菅原真道:Wikimedia Commons〉

桓武天皇の二大政策は「造作」と「軍事」です。

「造作」=「平安京の造営」

「軍事」=「蝦夷の征討」

桓武天皇は「造作」と「軍事」をこのまま継続するべきかについて、農民の立場から考えて討論させたのです。

民に寄り添う優しい天皇だった事が分かりますね。

「藤原緒嗣」は中止を唱えました。

理由は「蝦夷の征討で人が死んでいるのに、長岡京から平安京の造営まで負担をかけすぎている」です。

「菅原真道」は継続を唱えました。

理由は「平安京という天皇の拠点が未完成では、天皇の権威が落ちる」です。

「桓武天皇」が選んだのは、「中止」でした。

異例の経歴で苦労してきた人だからこそ、農民の事情に寄り添った決断だったのかもしれません。

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