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【摂関政治全盛!】藤原道長・藤原頼道の治世!

皆さんこんにちは!

今回は摂関政治の全盛期を解説します!

他氏の排斥が完了し摂関家同士の争いを勝ち残ったのは、藤原道長でした。

全てを手に入れた藤原道長にが、どんな世界が映っていたのでしょうか?

頻繁に交代する天皇にも注目です!

↓藤原氏の他氏排斥②は、こちらで解説しています!!↓

藤原道長の治世

〈986年 6月23日  一条天皇 即位〉

「花山天皇」が譲位して、「懐仁親王」が「一条天皇」として即位します。

〈一条天皇:Wikimedia Commons〉

彼の即位と同時に、摂関政治の全盛期が訪れると言っても過言ではありません。

家系図は大分頭に入って来たでしょうか。

摂関家の立場から見ると、「花山天皇」が邪魔なのが分かりますね。

「一条天皇」は「円融天皇」の第一皇子であり、母は「藤原詮子(藤原兼家の娘=藤原道長の姉)」です。

「一条天皇」に兄弟姉妹はおらず、従兄弟に「花山天皇」と次の天皇の「三条天皇」がいます。

〈995年 5月 藤原道長 内覧に就任〉

長らく続いた摂関家の争いの決勝戦は「藤原道長(叔父)」vs「藤原伊周(甥)」の戦いです。

しかし「藤原伊周」は自滅します。

〈藤原伊周:Wikimedia Commons〉

「藤原為光の娘」の家に「藤原伊周」の兄である「藤原隆家」が通っていました。

〈藤原隆家:Wikimedia Commons〉

なんとここで「花山天皇」も同じく通い始めます。

〈花山天皇:Wikimedia Commons〉

「藤原隆家」と「藤原伊周」の兄弟は「花山天皇」の通っているのを知らず、恋敵を驚かせようとイタズラで矢を放ちました。

その人物が「花山天皇」で、重罪になりました。

「藤原隆家」は出雲国、「藤原伊周」は大宰府に左遷されました。

こうして「藤原道長」は「内覧」に就任するのです。

〈藤原道長:Wikimedia Commons〉

「内覧」=「天皇に提出される文書をあらかじめ閲覧・決裁する権限を持つ役職」を指します。

これはとんでもない権力です。

「摂政」・「関白」の仕事内容はあくまで天皇の補佐です。

しかし「内覧」は成人した天皇に対して、提出する文書を先に見れる訳ですから、全ての政策が「藤原道長」の思い通りになります。

最早誰にも逆らえない状況が出来上がったのです。

〈1011年 6月13日  三条天皇 即位〉

「一条天皇」が病気になり、従兄弟で当時35歳の「三条天皇」に譲位しました。

〈三条天皇:Wikimedia Commons〉

「藤原道長」は引き続き「内覧」に就任しています。

しかし1014年、三条天皇は眼病を患ってしまいます。

仙丹の服用直後に視力を失ったと言われていますが、真偽のは定かではありません。

「藤原道長」は天皇の眼病を理由に、しきりに譲位を迫り実現させます。

譲位を迫った理由は家系図を見れば納得です。

「藤原道長」は「一条天皇」の血筋が皇位に就くのを望んでいるのです。

↓三条天皇は百人一首に選ばれています、こちらもご覧ください!!↓

〈1016年 1月29日  後一条天皇 即位〉

「三条天皇」が病気で譲位し、従兄弟の「後一条天皇」が8歳で即位しました。

〈後一条天皇:Wikimedia Commons〉

この時代には珍しく、他の妃を持たない天皇でした。

しかし「後一条天皇」は世継ぎの皇子には恵まれぬまま、数え29歳で崩御してしまいます。

『栄花物語』によると飲水と痩身の症状の記載があり、糖尿病によるものと考えられています。

突然の崩御で葬儀の準備も出来ていなかったそうです。

〈1016年 1月 藤原道長 摂政に就任〉

「後一条天皇」が8歳だったこともあり、「摂政」に就任しました。

この当時が「藤原道長」の絶頂期と言われています。

「藤原道長」は自分の娘4人を天皇の妃にして、自分の孫を天皇にする事に成功しました。

それ程に運の良い人物なので、藤原氏の中でも一番有名なのです。

3人目の娘を天皇の后にした時のお祝いの席で、彼の権勢を表した有名な和歌が「小右記」に記載されています。

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

日本語訳は「この世は私の物だと思う、満月のように欠けている所が無いように思えるから」

ナルシスト極まりないですが、誰も逆らえない程に権力を手にしていた事が、この和歌から伝わってきますね。

ここで大事な事があります。

「藤原道長」は「後一条天皇」の「関白」になる事はありませんでした。

しかし「藤原道長」を「御堂関白」と呼ぶ事があります。

彼の権勢は「摂政・関白と異ならず」と評され、関白には就任していないけど、関白と同等の権力があるという比喩が込められています。

「御堂(みどう)」=「藤原道長が建立した法成寺(ほうじょうじ)」を指します。

「藤原道長」は1028年に亡くなりますが、最期を迎えた場所も「法成寺」でした。

藤原頼通の治世

〈1017年 3月 藤原頼通 摂政に就任〉

「藤原道長」は息子の「藤原頼通」に摂政を譲りました。

〈藤原頼通:Wikimedia Commons〉

全てを手にして思い残す事は無くなったので、息子の後見人をしようと考えたのかもしれません。

〈1019年 3月27日 ~ 4月13日  刀伊の入寇〉

中国東北部の民族の「女真族」が壱岐・対馬を襲い、更には九州に侵攻した事件です。

当時の日本では「女真族」を「刀伊」と呼んでいました。

壱岐守「藤原理忠」は147人の兵を率いて「刀伊」の征伐に向かいましたが、3,000人という大集団には敵わず玉砕しました。

しかしここで思わぬ救世主が登場します。

その人物こそ「花山天皇」を矢で射抜いた張本人である「藤原隆家」です。

〈藤原隆家:Wikimedia Commons〉

元々出雲国に左遷されていましたが、病気を理由に大宰府への移動希望を出していました。

その要望が受け入れられ、大宰権帥に就任していました。

「藤原隆家」が「女真族」を迎え撃ち、撃退に成功しました。

〈1019年~1067年  藤原頼通 関白に就任〉

安和の変で「源高明」を左遷してから、1067年までの約100年間、藤原氏は権力を握り続きます。

藤原氏に誰も逆らえない朝廷は、どのような雰囲気だったのでしょうか。

〈1028年 6月 平忠常の乱〉

「平忠常」がようやく登場しました。

お母さんは「平将門」の娘です。

〈家系図:Wikimedia Commons〉

経緯

「平将門の乱」と似ていて、「平忠常」が安房国の国司と喧嘩した事が発端です。

〈安房国:Wikimedia Commons〉

「平将門の乱」から約100年が経過し、成長した武士団はとんでもない勢力を誇っていました。

朝廷は3度に渡り鎮圧軍を派遣しますが、その全てを撃破しています。

朝廷は最後の切り札として、朝廷で最強と言われていた「源頼信」を派遣します。

〈源頼信:Wikimedia Commons〉

武道に優れ「藤原道長」にも仕えた経験のある、文句無しに最強の武士です。

〈平忠常の居宅へ迫る源頼信:Wikimedia Commons〉

余談ですが「源頼信」の息子は、前九年合戦で活躍する「源頼義」です。

〈源頼義:Wikimedia Commons〉

結果

「源頼信」の出陣により「平忠常」はあっけなく降伏しました。

理由はよく分かっていませんが、「源頼信」はそれほどまでに優れた人物だったのかもしれません。

「平忠常」は斬首され、反乱は鎮圧されました。

〈1036年 4月17日  後朱雀天皇 即位〉

「後一条天皇」の崩御に伴い、弟の「後朱雀天皇」が即位しました。

〈後朱雀天皇:Wikimedia Commons〉

「藤原頼通」が引き続き関白を続けます。

「後朱雀天皇」は肩に悪性腫瘍を患い、在位期間9年にして亡くなってしまいます。

亡くなる2日前に譲位しました。

〈1045年 1月16日  後冷泉天皇 即位〉

「後朱雀天皇」の譲位に伴い、息子の「後冷泉天皇」が即位しました。

〈後冷泉天皇:Wikimedia Commons〉

もう家系図は頭に入りましたでしょうか。

「後冷泉天皇」は藤原氏にとってピンチの人物です。

理由は「後冷泉天皇」が男の子に恵まれず、皇太子が「尊仁親王」だからです。

皇太子の「尊仁親王」の外祖父は「三条天皇」なので、藤原氏と外戚関係にありません。(外祖父が藤原氏の場合に権力が握れるんでしたよね)

「藤原頼通」以外の藤原氏も外戚争いに参戦し、「後朱雀天皇」・「後冷泉天皇」に娘を嫁がせますが、悉く男の子が生まれないのです。

この時の藤原氏の焦りようは尋常ではなかったと思います。

〈1053年 3月 平等院 寺院に改築〉

「藤原頼通」が別荘を寺院に改修したのが、「平等院」です。

〈平等院:Wikimedia Commons〉

当時は「鳳凰堂」とは呼ばれておらず、「平等院鳳凰堂」と呼ばれ始めたのは江戸時代からのようです。

最初は「源融」が建立し、所有者が「宇多天皇」→「源重信」→「藤原道長」→「藤原頼通」と代わっていきます。

摂関政治が途切れてしまう事を絶望するかのように、「平等院」に入り浸るようになりました。

当時は「末法思想」が流行っていました。

釈迦の教えが蔑ろにされて、この世の終わりが来ると考えられていたのです。

死後の天国の世界を想像して作られたのが、現在の平等院なのです。

〈1067年 12月  藤原頼通 関白を辞任〉

「藤原頼通」は「後冷泉天皇」の死期が近い事を悟ると、自ら関白を辞任しました。

諦める覚悟を決めて、政界から引退しようとする気持ちが感じ取れます。

1068年に「後冷泉天皇」が亡くなり、平安時代は次のステージに進むことになります。

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