皆さんこんにちは!
今回は第一次護憲運動と大正政変について解説します!
明治以降続いていた藩閥政治が、民衆によって打倒した大きな事件でした。
民衆は何に不満を持っていたのか、当時の政治情勢を追いながら確認していきましょう!
↓前回までの流れはこちらをご覧ください!!↓
第2次 西園寺公望 内閣
〈1911年 10月 辛亥革命〉
「清」を打倒するべく、革命が勃発しました。
「辛亥」は当時の干支を指しています。
下の図の48番目にありますね。

〈干支:Wikimedia Commons〉
革命を指導するのは「孫文」です。

〈孫文:Wikimedia Commons〉
「孫文」は欧米列強に侵略されていく「清」ではダメと考えていました。
新しい政府を樹立し、欧米列強に対抗できる強い中国を取り戻そうと立ち上がったのです。
「孫文」は新しい国造りを目指すにあたり、「三民主義」を掲げていました。
「三民主義」=「民族・民権・民生」を指します。
〈1912年 1月 中華民国臨時政府 樹立〉
革命のリーダーの「孫文」が、南京で「臨時大総統」に就任しました。

〈孫文率いる中華民国臨時政府の面々:Wikimedia Commons〉
「清」が滅び、「中華民国」が建国されました。
「中華民国」は「共和制」の国です。
「宣統帝(愛新覚羅溥儀)」が退位させられ、中国から皇帝は居なくなりました。
退位した時、まだ6歳です。

〈宣統帝(愛新覚羅溥儀):Wikimedia Commons〉
その為「宣統帝(愛新覚羅溥儀)」は、「ラストエンペラー」と称される事が多いです。
映画にもなっていますね。
「中華民国」の憲法には、「三民主義」の考え方が強く反映されています。
〈1912年 7月8日 第三次日露協約〉
「辛亥革命」に対応するために結ばれました。
内容は
ロシアが「内蒙古の西部」、日本が「内蒙古の東部」を利益を分割する
です。
中国で新しい政府が誕生したという事は、間違いなく植民地化を進める国と戦争になります。
来たるべき戦いに向けて、日本とロシアで今一度勢力範囲を確認しました。
↓第一次・第二次日露協約の内容は、こちらで確認してください!!↓
〈1912年 二個師団増設問題〉
「師団」=「軍の編成単位の1つ」を指します。
簡単に言えば、軍隊増強問題の事です。
軍隊の話をしている事を頭に入れて、経緯を確認していきましょう!
経緯
1904年に発生した「日露戦争」の開戦直前の陸軍は13個師団体制でした。
激化する戦況を考慮して戦時中に4個、1906年には2個増強されて19個師団体制に増強していました。
「辛亥革命」を受けて、「中華民国」との戦いが視野に入ります。
陸軍に大きな影響力を持つ「山縣有朋」は、「平時25個師団・戦時50個師団」まで拡張すべきだと主張しました。

〈山縣有朋:Wikimedia Commons〉
しかし「日露戦争」講和条約である「ポーツマス条約」では、賠償金を得る事が出来ませんでした。
つまり日本は金欠だったという事です。
世間も戦争の倹約で疲弊しているのに、軍隊増強に予算を割くことは当然出来ません。
内閣と軍隊の対立が決定的になりました。
そこで事件が起こります。
結果
12月2日、「大正天皇」に対して、「上原勇作」が自身の辞職の旨を伝えました。

〈大正天皇:Wikimedia Commons〉

〈上原勇作:Wikimedia Commons〉
そして陸軍は後任を推薦せず、内閣は軍部大臣が空席になってしまいました。
※ここで超重要事項です。
この当時は「軍部大臣現役武官制」が制定されています。
「軍部大臣現役武官制」=「陸軍大臣・海軍大臣の就任資格を現役の大将・中将に限定する制度」です。
「軍部大臣現役武官制」の規定により、西園寺内閣は総辞職せざる得なくなりました。
つまり「二個師団の増強が認められないので、嫌がらせとして総辞職させた」という訳です。
第3次 桂太郎 内閣
〈1913年 2月 桂太郎 総理大臣就任〉
陸軍大将の「桂太郎」が天皇の許可を得て、第3次桂太郎内閣を組閣しました。

〈桂太郎:Wikimedia Commons〉
しかしこの就任は国民から反発を受け、打倒される事になります。
国民生活を省みず軍備拡張を図っているように、国民から受け止められたからです。
宮中府中の別
「桂太郎」は「内大臣・侍従長」を兼務していました。
簡単に言うと天皇の補佐役です。
「内大臣」は幕末に「徳川慶喜」が就任していた役職で有名です。

〈徳川慶喜:Wikimedia Commons〉
当時「宮中府中の別」という法律が制定されていて、「宮中の役職に就いている者は政府の中に入ってはいけない」と決められていました。
なのに法律をガン無視で総理大臣に就任しています。
この横暴さも、国民の不満に繋がりました。
〈1913年 第一次護憲運動〉
藩閥政治を打倒するべく、国民が立ち上がります。
スローガンは「憲政擁護・閥族打破」です。
「閥族」=「官僚・軍部」を指します。
第一次護憲運動の中心人物は、立憲政友会の「尾崎行雄」・立憲国民党の「犬養毅」です。

〈尾崎行雄:Wikimedia Commons〉

〈犬養毅:Wikimedia Commons〉
「桂太郎」は吏党の「中央倶楽部」と、「立憲国民党」の一部を引き抜き護憲運動に対抗しようとしました。
しかしそれでも護憲運動は収まらず、遂に暴動に発展します。
〈1913年 大正政変〉
護憲派の民衆が新聞社や交番を襲撃し、何日間にも渡りデモを行いました。

〈政府寄りの「二六新報社」を襲撃する群衆:Wikimedia Commons〉
現代の日本だとあまり想像できませんが、当時の日本人には凄まじい行動力がありました。
流石に「桂太郎」も抑え込むことが出来ず、僅か53日で総辞職に追い込まれます。
国民が力を併せてデモを行えば、政府に要求を呑ませられるという、大きな偉業でした。
もはや国民の意見は無視できない域に達していたのです。
第1次 山本権兵衛 内閣
〈1913年 2月20日 山本権兵衛 総理大臣就任〉
軍人ではありますが、政党や世論に理解のある「山本権兵衛」が組閣しました。

〈山本権兵衛:Wikimedia Commons〉
加えて与党は「立憲政友会」です。
護憲派の「立憲政友会」を与党なので、「桂太郎」の時の藩閥政治とは違うと世間にアピールする狙いもありました。
〈1913年 6月13日 軍部大臣現役武官制 改定〉
諸悪の根源だった「軍部大臣現役武官制」が改訂されました。
「陸軍大臣・海軍大臣の就任資格を現役の大将・中将に限定」の項目を削除しました。
軍人の中でも国民に理解のある人物を、大臣に推薦可能になったのですね。
「西園寺公望」のように、「軍部大臣現役武官制」によって内閣が倒される事態を防ぐ事が出来ます。
〈1913年 10月10日 桂太郎 死去〉
1つの時代を作り上げてきた「桂太郎」が病死しました。
桂園時代も終わりを告げ、政治は新たな局面を迎えます。
藩閥政治から民主主義の時代に移行するのです。
〈1914年 ジーメンス事件(シーメンス事件)〉:山本権兵衛内閣打倒
海軍の賄賂が露見した事件です。
ドイツの「ジーメンス社」とイギリスの「ヴィッカーズ社」から、海軍が賄賂を受け取っている事実が、世間に報道されました。
事の発端は、海軍の戦艦「金剛」の「ジーメンス社」への発注です。
イギリスの「ヴィッカーズ社」も絡んで、海軍の高官が賄賂を受け取っていたのです。
当然海軍に対する風当たりが強くなり、批判が殺到しました。
「山本権兵衛」も「ジーメンス事件」により、総辞職に追い込まれました。
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