皆さんこんにちは、パルです!
今回は大日本帝国憲法の特徴と内閣制度の確立を見ていきます。
自由民権運動は国会を開設する為の運動ですが、国会を開設する為には憲法や前提となる法律がないと、そもそも機能しません。
明治政府が国会開設までに焦って制度を確立している様子を、「流れ」を追って確認していきましょう!
↓前回の復習をしたい方はこちらをご覧ください!!↓
憲法制定に向けて
1881年の国会開設の勅諭で、10年後の国会開設が正式に決定しました。
ここで一度確認を入れますが、国会=「法律を作る場所」です。
法律は憲法を前提に作成される為、10年後までに憲法を作る必要があります。
伊藤博文が国会開設に向けて憲法を制定する為、ドイツに勉強に行きました。
海外の大学に留学するという、ガチの勉強です。
共に憲法調査をしてくれた顧問がいて、「グナイスト」と「シュタイン」という人物です。
グナイストはベルリン大学の法学者です。
イギリス型の議会制度や自治制度に詳しく、伊藤は彼から「議会のあり方」を学びました。

〈画像 グナイスト:Wikimedia Commons〉
シュタインはウィーン大学の教授です。
ドイツ型の官僚制・行政制度に詳しく、伊藤は彼から「官僚機構・行政組織」を学びました。

〈画像 シュタイン:Wikimedia Commons〉
〈1884年 制度取調局 設置〉
憲法を制定する為の役所です。
留学から帰国し、伊藤博文が長官となりました。
神奈川県の夏島という場所で憲法の草案が作られ、制度取調局で夏島草案を吟味しました。
夏島草案の作成者は「伊藤博文」、「伊藤巳代治(みよじ)」、「金子堅太郎」、「井上毅(いのうえ こわし)」、「ロエスレル」、「モッセ」です。
「ロエスレル」、「モッセ」のような日本の近代化の力になってくれる外国人の事を、「お雇い外国人」というので覚えておきましょう!

〈画像 伊藤巳代治:Wikimedia Commons〉

〈画像 金子堅太郎:Wikimedia Commons〉

〈画像 井上毅:Wikimedia Commons〉

〈画像 ロエスレル:Wikimedia Commons〉

〈画像 モッセ:Wikimedia Commons〉
〈1884年 華族令・貴族院 創設〉
華族令により、「公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵」の五等爵が新たに創設されました。
また、国会開設に向けて衆議院の設立に先立ち、貴族院が設置されました。
下の写真は実際の貴族院の玉座と、議会の様子です。


〈画像:Wikimedia Commons〉
貴族院のメンバーは、江戸時代のお殿様が中心に選ばれています。
お殿様達の意見が反映されすぎて、江戸時代みたいな政治になるのは明治政府としても困ります。
頭の良い人たちも積極的に登用したい明治政府は、「公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵」を設置する事により、レベルを分けてお殿様達のプライドを保ちつつ、有力な人物を登用するという制度を確立したのです。
内閣制度
〈1885年 12月22日 内閣制度 発足〉
太政官制が廃止され、現在に続く内閣制度が遂に導入されました。(内務卿のなどの役職が廃止されました)
初代内閣総理大臣は「伊藤博文」が就任し、明治政府のオールスターが各大臣に配置されています。
名前 | 役職(大臣) |
---|---|
伊藤博文(いとう ひろぶみ) | 内閣総理大臣 |
井上馨(いのうえ かおる) | 外務大臣 |
山県有朋(やまがた ありとも) | 内務大臣 |
松方正義(まつかた まさよし) | 大蔵大臣 |
森有礼(もり ありのり) | 文部大臣 |
大山巌(おおやま いわお) | 陸軍大臣 |
西郷従道(さいごう つぐみち) | 海軍大臣 |
谷干城(たに たてき) | 農商務大臣 |
榎本武揚(えのもと たけあき) | 逓信大臣 |
三条実美(さんじょう さねとみ) | 内大臣(※内閣には入らず、天皇の補佐役) |
「山形有朋」は、藩閥政治大好き人間です。
政党政治は大嫌いで、国民が政治に関わる事に少しも良く思っていません。
自由民権運動関連で言うと、保安条例を制定し自由民権派を追放した事で知られています。

〈画像:Wikimedia Commons〉
「松方正義」は自由民権運動でも触れていますが、デフレーションを推し進めた人物です。
太政官制の時は「大蔵卿」を務め、内閣制度が確立すると「大蔵大臣」になりました。

〈画像:Wikimedia Commons〉
「西郷従道」は「西郷隆盛」の弟です(兄と似てますかね?)

〈画像:Wikimedia Commons〉
「谷干城」は西南戦争で熊本鎮台の長官として「西郷隆盛」と戦った人物です。
西郷従道との関係性は良好だったのでしょうか、気になりますね。

〈画像:Wikimedia Commons〉
「榎本武揚」は戊辰戦争で旧幕臣として最後まで戦った人物です。
彼は留学経験があり海外事情に精通していた為、失ってしまうのは惜しいと思われ、殺されませんでした。
新時代の有能な人物として明治政府から取り立てられました。

〈画像:Wikimedia Commons〉
〈1888年 枢密院 創設〉
夏島草案を最終チェックする為に設置された役所で、議長は勿論伊藤博文です。
下の写真は現在の枢密院です。

〈画像:Wikimedia Commons〉
枢密院は憲法の制定後、「天皇の最高諮問機関」として機能しました。
伊藤博文は憲法の作成に本腰を入れる為、総理大臣を辞任し、「黒田清隆」が二代目の総理大臣に就任しました。(黒田清隆は開拓使官有物払下げ事件で登場しました)
〈1889年 大日本帝国憲法 発布〉
1889年、伊藤博文の努力が実を結び、大日本帝国憲法が発布されました。
この時の総理大臣は黒田清隆です。

〈画像:Wikimedia Commons〉
下の写真は大日本帝国憲法発布式の様子です。

〈画像:Wikimedia Commons〉
「大日本帝国憲法」は現在の「日本国憲法」とはかなり内容が異なっているので、ここでしっかりと抑えましょう!
項目 | 大日本帝国憲法(1889年) | 日本国憲法(1947年) |
---|---|---|
制定者 | 天皇(明治天皇) | 国会(日本政府、GHQの指導による草案) |
憲法の性質 | 欽定憲法(天皇が制定した) | 民約憲法(国民の意志を反映、国民主権) |
臣民 | 「臣民」として、天皇に忠誠を尽くす義務がある | 「国民」として、平等な立場で基本的人権を享受 |
天皇の位置付け | 天皇は「神聖不可侵」であり、国家元首として絶対的権限を有する | 天皇は「象徴」として位置づけられ、政治的権限は一切持たない |
天皇大権 | 天皇が広範な権限(例:戦争宣言、軍の指揮権、条約締結)を持つ | 天皇大権は廃止され、政治的権限は一切持たない |
伊藤博文がめちゃくちゃ努力して作成された憲法ですが、日本が目指している姿は「天皇を中心とする中央集権国家」なので、制定者は明治天皇です。
そして国民は天皇が所有することになっていて、天皇の国民であることを「臣民(しんみん)」と言います。
天皇は絶対的権力を持っており、神様の末裔とされていて、「神聖不可侵」と位置付けられています。
戦争の開始や軍の権限など、あらゆる権力を手にしている事を「天皇大権」と言います。
〈1889年 皇室典範・衆議院議員選挙法 制定〉:大日本帝国憲法と同日
皇室典範とは現在に続く、天皇家の決まりが定められている法律です。
女性は皇位に就けないなど、主に天皇について記されています。
加えて、衆議院議員選挙法も制定されました。
ここが超重要ポイントです!!
選挙権が与えられたのは「直接国税を15円以上納める25歳以上の男子」です。
国に直接納める税金を「直接国税」と言います。
皆さんに馴染み深い「消費税」などは、お店が私たちの代わりに国に納めているので「間接税」と言います。
「15円」は今の感覚で言うと、「 10万円前後の税金を納めている」イメージです。
上記の条件に当てはまったのは、当時の人口約4,000万人の内、約45万人です。
割合にすると約1.1% の有権者です((笑)
国会は開設しましたが、有権者を限りなく少なくすることで、政府の方針を邪魔させない様にしていました。
衆議院議員選挙法は徐々に制限が撤廃されていくので、以下に変遷を記載します。
年号 | 首相 | 納税条件(直接国税) | 選挙権の条件(年齢・性別) |
---|---|---|---|
1889年(明治22) | 黒田清隆内閣 | 年15円以上 | 満25歳以上の男子 |
1900年(明治33) | 山県有朋内閣 | 年10円以上 | 満25歳以上の男子 |
1919年(大正8) | 原敬内閣 | 年3円以上 | 満25歳以上の男子 |
1925年(大正14) | 加藤高明内閣 | 納税条件撤廃(=普通選挙法制定) | 満25歳以上の男子 |
1945年(昭和20) | 幣原喜重郎内閣 | 納税条件なし | 満20歳以上の男女(女性参政権実現) |
〈諸法典 制定〉:現代にも通ずる法律
立憲政治の確立と共に、明治政府は諸法典も整備してきました。
以下に一覧を記載しています。
名称 | 年号 | 豆知識 |
---|---|---|
新律綱領 | 1870年(明治3年) | 清の刑法を参考にした日本最初の近代的刑法典。 まだ「笞(むち打ち)」や「徒刑」など前近代的刑罰も残っていた。 江戸時代の「公事方御定書」を近代版にバージョンアップさせた。 |
改定律令 | 1873年(明治6年) | 新律綱領を改定。 公開処刑(死刑)を廃止し、近代的な処罰体系に一歩前進。 司法卿の江藤新平が制定。 |
治罪法 | 1875年(明治8年) | 1890年に「刑事訴訟法」に改定。 司法・行政の分離を進める中で、裁判手続きを規定した。 ボアソナードが起草。 |
刑法(旧刑法) | 1880年(明治13年)公布、1882年施行 | フランス刑法をモデルにした近代的刑法。 死刑は絞首刑のみと規定。 ボアソナードが起草。 |
商法 | 1890年(明治23年)公布、1893年施行 | ドイツ法をモデル。 企業活動や契約に関する近代ルールを整備。 最初はフランス系だったが途中でドイツ系に路線変更。 ドイツ人のロエスレルが起草。 |
民法 | 1890年(明治23年)公布(旧民法)、1898年(明治31年)全面施行 | 初めはフランス流で公布されたが「ボワソナード民法」は批判を受け、結局ドイツ流に改正。 家父長的な「家制度」を強く反映した。 |
1889年に「民法典論争」が発生しました。
理由は「ボアソナードが指導した民法が個人主義的」だったからです。(ちなみに彼は法政大学の創設者でもあります)

〈画像:Wikimedia Commons〉
フランス人の彼は自由を重んじる国に生まれた為、民法の内容も「個人の自由や契約の平等」を重視する内容でした。
しかし日本ではまだまだ価値観が古く、「家父長的な日本の家制度を守るべき」と考える人も少なくありませんでした。
そこで巻き起こったのが民法典論争です。
賛成派の筆頭は「梅謙次郎」、反対派の筆頭は「穂積八束」です。

〈画像 梅謙次郎:Wikimedia Commons〉

〈画像 穂積八束:Wikimedia Commons〉
民法は全ての人々に直接関係ある法律なので、激しい論争が巻き起こりました。
論争の影響を受け、1896年と1898年には「新民法」が制定されました。
二回に分けられたのは、単純に民法の項目が多すぎて、一度に出せなかったからです。(民法の項目は1000条項を超えています)
こうして様々な前提となる法律を制定し、満を持して初期議会が開催されるのです。
因みに国会せ法律を決めるから、今決めているのおかしくない?って思った方は正常です。
明治政府はあらかじめ揉めそうな法律については、1887年の保安条例で民権派を追放している隙に、さっさと制定したのです。
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さぁ、日本史を楽しみましょう!
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