皆さんこんにちは、パルです!
今回は不平士族の反乱と西南戦争を解説します!
日本最後の反乱とも言われる不平士族の反乱は、いつ・なぜ・だれが起こしたのかを理解すると、明治時代の「流れ」を理解できます。
前回までの復習をしたい方は、こちらをご覧ください!!
反乱の要素
不平士族の反乱は、全国5箇所で発生します。
明治政府の強硬策が招いた結果でした。
以下に士族達が不満を持った要素を挙げていくので、まずはそこから抑えましょう!
①四民平等の原則
1869年、「四民平等の原則」が出され、江戸時代までの「士・農・工(職人)・商」の身分は廃止されました。
その結果、「大名→華族」、「藩士(一般の武士)→士族」、「農民・商人・職人→平民」と身分が改められました。
「へー、身分が改められただけか」と思うかもしれませんが、新しい身分は「平等」というのが肝です。
今まで「武士」という特級階級にいた人々は面白くありません。
これが1つ目の不満です。
②徴兵令
「武士」という身分は消滅しましたが、日本を守るためには軍隊が必要です。
留守政府は海外の制度を見習って、国民全員が兵士の対象となるように変更しました。
この考え方を「国民皆兵」と言います。
1873年に徴兵令が出され、初めての国民軍隊が作られました。(徴兵令は1872年に「徴兵告諭」に基づいて出されています)
満20歳以上の男子で徴兵検査を受け、合格者より抽選で三年間勤務という規定が設けられました。
ここで大事な事が「武士の仕事がなくなった」という事です。
「戦は偉い人がするもの」という概念が破壊された瞬間でもありました。
戦というアイデンティティを取り上げられてしまったのが、2つ目の不安です。
③秩禄奉還の法・金禄公債証書の発行・秩禄処分
「秩禄(ちつろく)」というのは、江戸時代に武士に払っていた給料を指します。
当時の明治政府の支出の30%を占めていたのが、「秩禄」+「賞典禄(今で言うボーナス)」でした。
明治政府が「武士」という存在を葬り去りたいのは、お金が関係しているという訳です。
1873年、秩禄奉還の法が出され、自発的に秩禄を奉還(お給料要らない宣言)して欲しいと「武士」にお願いをしました。
結果はどうなったか。
当然誰も奉還しませんでした。
秩禄を奉還したら、明日から給料無し生活になるんですから当然ですよね(笑)
ここで明治政府は強硬政策を打ち出します。
1876年、金禄公債証書の発行です。

「金禄公債証書」というのは、「退職金の引き換え手形」です。
「華族」には平均64000円(現在なら億レベル)、「士族」には平均500円(現在なら10万円程度)の引換券を渡しました。
※ここで超重要事項があります
実はこの「金禄公債証書」、引換券とは言っていますが、いつ引き換えられるか分かりません。
明治政府がOKした時に引き換えられるのですが、最長で30年後というとんでもない制約付きの退職金なのです。
武士の反対を無視して断行し、当時の総人口の10%を占める武士を一斉解雇しました。
一応退職金を貰った武士は商売を始めますが、今まで商売の経験がない人間が上手くいかなかったようです。
これを「士族の商法」と言います。
これら秩禄に関する一連の施策を「秩禄処分」と言います。
これが3つ目の不満です。
④征韓論敗北
「征韓論」はその名の通り、韓国を征服する政策です。
留守政府の西郷隆盛・板垣退助を中心に、不平士族の不満解消として唱えていました。
仕事がなくなった武士に対しての、救済措置案だったのです。
1873年、岩倉使節団の帰国により征韓論は敗北し、征韓論を唱えていた中心人物達は政府を辞める事になりました。(明治6年の政変)
これが4つ目の不満です。
⑤廃刀令
1876年、明治政府は「廃刀令」を出しました。
武士の誇りとも言える、刀の所持を禁止しました。
この廃刀令にも多くの反対が集まりました。
しかし徴兵令を出し国民皆兵になった今、武士だけ特別扱いする訳にはいかなかったのです。
これが5つ目の不満です。
佐賀の乱(1874年 2/1~3/1)佐賀
明治6年の政変で政府を下野した人物の中に、「江藤新平」という人物がいます。

〈画像:Wikimedia Commons〉
江藤新平の故郷は佐賀県で、政府を去り嵯峨に戻ると、政府に不満を持った人々で溢れかえっていました。
1874年、江藤新平が帰ってきて気分が高まったのか分かりませんが、江藤の弟子のグループである「征韓党」約12000名が、佐賀県庁を襲撃するという事件を起こします。
「佐賀の乱」の勃発です。
元々反乱を起こすつもりは無かった江藤新平ですが、戦が起きたので取り敢えず参加しました。
気付いたら弟子達に担がれて、反乱の首謀者になってしまいました。
結局佐賀の乱はすぐ鎮圧されましたが、江藤が参加したのには一応理由がありました。
江藤新平は明治政府に居た時に「司法卿」を担当していました。(法律を作るトップの人だった)
1873年に「改定律令」を制定し、死刑制度を廃止していた為、捕まっても裁判をやれば死ぬことは無いと考えていたのです。
しかしこの反乱は国に対する謀反と捉えられ、無念にも処刑されました。
敬神党(神風連)の乱(1876年 10/24~10/25)熊本
佐賀の乱を受けて、熊本でも反乱が発生しました。
1876年、熊本士族約190人による、敬神道(神風連)の乱の勃発です。
1876年の廃刀令や秩禄処分に不満を持った故の反乱でした。
首謀者は太田黒 伴雄(おおた ぐろともお)という人物で「敬神党」というグループのメンバーでした。

〈画像:Wikimedia Commons〉
太田黒 伴雄が戦の中で銃弾を浴び、切腹したことにより乱は鎮圧されました。(享年42)
~ここで差が付く!「神風連(しんぷうれん)」という呼び名の由来~
敬神党は、「神風連」と呼ばれる民間の結社が母体でした。
彼らは古神道(特に平田国学の影響)を信じていて、尊皇攘夷思想と共に「武士の道」を守ることを使命としました。
神風連の思想・信仰の背景
1.平田国学の影響
神風連の多くは 平田篤胤(ひらた あつたね) の学派を信奉していました。

〈画像:Wikimedia Commons〉
平田国学は「復古神道」を唱え、古代日本の神々を直接信仰する立場です。
彼らは「西洋文明や仏教は日本の純粋な精神を汚すもの」と考えました。
2.攘夷思想の継続
明治政府は「文明開化」「西洋化」を進めていましたが、神風連は強く反発しました。
廃刀令や廃仏毀釈(仏教を蔑ろにする政策)など「伝統を壊す政策」に怒り、「西洋の真似ではなく、神国日本の道を守らねばならぬ」と考えました。
3.武士の誇りと霊的使命
彼らは「武士道」と「神道」を一体のものとして考え、武士として戦う事を「神の意志に従う行為」と信じていました。
そのため反乱も単なる政治運動というより、宗教的な「“神懸かり”の蜂起 」という色彩が強かったのです。
神風連の乱の前、彼らは断食や祓いを行い、神が降りたかのような状態で蜂起に臨んだと伝えられます。
「神が味方すれば必ず勝てる」と信じていたため、圧倒的に不利な戦いにも飛び込んでいきました。
4.彼らにとっての「神風」
名称の通り、彼らは「元寇で吹いた神風」の再来を信じていました。
自分たちが蜂起すれば、天が味方して日本を守ってくれると本気で思っていたからこそ、「神風連」と名乗り乱も後世でその名で呼ばれるようになりました。
これら一連の背景から、事件自体は公式には「敬神党の乱」と呼ばれるものの、世間では「神風連の乱」として広まりました。
秋月の乱(1876年 10/27~11/3)福岡
神風連の乱に影響されて挙兵しました。
約230名の旧秋月藩士族達による、秋月の乱の勃発です。
首謀者は「宮崎車之介(しゃのすけ)」で、「秋月党」というグループの幹部だった人物です。

〈画像:Wikimedia Commons〉
神風連の乱同様、1876年の廃刀令や秩禄処分に不満を持った故の反乱でした。
秋月藩士は火縄銃や刀中心で、最新式の銃(スナイドル銃など)を持つ政府軍には歯が立たず、僅か数日で鎮圧されてしまいます。
戦死者や捕縛者が多数出ますが、「討ち死に」を選んだ士族も多く、「潔い死」が武士の誇りとして称えられました。
秋月の乱に参加した人の中には、「西南戦争にも行きたかった」と後悔した者もいたそうです。
前原一誠の乱(萩の乱)(1876年 10/28~11/6)山口
元参議であり、新潟県令も務めた「前原一誠」が首謀者です。

〈画像:Wikimedia Commons〉
この乱は非常に重要で、乱が起きた場所が「山口県」という事です。
明治政府を牛耳っているのは長州藩(山口)の人々なのに、それでも反乱が起きるという事は、明治政府の内部でもほんの一握りの人物しか、権力が握れない事を表しています。
前原一誠は新潟県令として新潟に赴任した際、「戊辰戦争」で奥羽越列藩同盟が激戦を繰り広げた後の、悲惨で荒れた光景を目の当たりにしました。
↓戊辰戦争は別途解説しているので、こちらもご覧ください!!↓
明治政府は地租改正を行い税金の徴収を始めますが、新潟はとても地租を取れる状態にはありませんでした。
見かねた前原は明治政府に「復興するまでの期間、地租の徴収を待ってくれ」とお願いしましたが、「黙れ」と一蹴されて新潟県令を外されてしまいました。
故郷の山口に戻ると不平士族が大量にいて、今の政府のやり方は間違っていると思い挙兵を決意しました。
自分が挙兵すれば、鹿児島の西郷隆盛も挙兵してくれると信じていた前原一誠でしたが、西郷は「自分の弟子」を育てると、前原の誘いを断りました。
結果単独の挙兵となり、明治政府に敗れ斬首されました。
西南戦争(1877年 2/15~9/24)鹿児島
首謀者は西郷隆盛で、現在のところ日本最後の内乱です。

〈画像:Wikimedia Commons〉
語呂合わせは「嫌な内乱(1877)」で覚えましょう。
西郷は政府を辞めた後、故郷の鹿児島で不平士族を教育する機関である、「私学校」を設立しました。
西郷は近いうちに日本は海外と戦争になる事を見越して、その時の為の訓練をしていたのです。
しかし周りから見たら、西郷が兵士を集めて政府と戦う準備をしている様に見えます。
明治政府のトップである「大久保利通」も故郷が気になり、鹿児島にスパイを送り込みました。

〈画像:Wikimedia Commons〉
しかしこのスパイが私学校の生徒に捕まり、「西郷暗殺の命令を受けていた」と自白します。
こうなるともう止められません。
西郷は鷹狩に出かけていたのですが、家に帰ると多くの人が集まっています。
西郷は「戊辰戦争」で明治政府の陸軍のトップを務めていた為、新政府の戦力を熟知しており、戦っても勝てない事は分かっていました。
しかし、自分を慕う弟子達の死に場所を用意する為に出兵を決断しました。
西南戦争の勃発です。
九州全土から西郷出陣を聞いた士族達が集結し、約30000人で出陣しました。
※西郷が「出陣でごわす」と一言告げると、九州全土から3万人が集結と伝わっています。
対する政府は、大久保利通が直々に大坂に陣取って、45000人の大軍勢を九州に差し向けました。
薩摩藩時代の幼馴染で共に切磋琢磨してきた2人が、最後は敵同士になるとは、何という切なさでしょうか。
西郷軍が最初に向かった先は「熊本」でした。
理由は熊本城に「鎮台」が置かれていたからです。

〈画像:Wikimedia Commons〉
鎮台は政治政府の軍事拠点で全国に設置しており、反乱が起きた際の対処をする役割を担っていました。
新政府軍は「抜刀隊(警察の組織)」や、熊本鎮台の長官である「谷干城(たにたてき)」が勇敢に戦いました。
下の写真は実際に熊本城で撮った写真で、前列真ん中が「谷干城」です。

〈画像:Wikimedia Commons〉
圧倒的な経験値を誇る西郷軍は短期間で熊本鎮台を攻略する予定でしたが、熊本鎮台は籠城の構えを見せ、西郷軍の攻撃を受けても全く落城する気配はありません。
刻一刻と本州からの救援が熊本鎮台に迫っています。
そこで西郷軍は熊本に少しの兵を残し、本州に向けて進軍を開始しました。
博多から南下する新政府軍と熊本から北上する西郷軍が鉢合わせた場所が、「田原坂」という場所です。


〈画像:Wikimedia Commons〉
田原坂は西南戦争随一の激戦地となっており、西郷軍が放った銃弾と新政府軍が放った銃弾が空中で1つになる程の激しさが20日間続きました。
現在でも歴史好きな人は田原坂に行き、土を掘り返して銃弾を持ち帰るようです。
結局新政府軍には続々と援軍が集まり、西郷軍は田原坂の戦いで敗れ、落ち延びました。
その後西郷軍は故郷の鹿児島へと戻りましたが、新政府軍に囲まれました。
最後は鹿児島の「城山」という洞窟に隠れていましたが、一斉攻撃を受け西郷にも銃弾が命中し自刃しました。

〈画像:Wikimedia Commons〉
当時最強と言われた鹿児島士族の反乱も鎮圧され、全国に武力では政府に勝てないという事実が周知されました。
以降は言論で政府に対抗する、自由民権運動が活発化します。
~西南戦争に加えて、プラスの知識~
1878年、近衛兵(明治政府が 天皇の護衛と首都防衛 の為に編成した精鋭部隊)約360名が西南政争の恩賞の不公平さを不満として、反乱を起こしました。
これを「竹橋事件」と言います。
徴兵令で徴兵された兵士の、初めての反乱事件です。
結果反乱に加わった55名が処刑されています。
この事件を受けて、のちに「軍人勅諭」が出されることになります。
受験生の方へ
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さぁ、日本史を楽しみましょう!
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