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【朝鮮を懸けた戦い】日清戦争と下関条約を徹底解説!

皆さんこんにちは!

今回は朝鮮の状況と日清戦争について解説します!

日清戦争は未熟だった日本が世界に認められるキッカケになった戦争です。

朝鮮をを軸に考えると、当時の外交の理解が深まります。

日清戦争の前後の流れをしっかり抑えましょう!

↓日清戦争以前の流れを解説しています、こちらもご覧ください!!↓

朝鮮の状況

国内の制度をある程度整えた明治政府は、海外に目を向け始めます。

日本は「清」・「朝鮮」・「ロシア」の動向に注視しながら、外交を進めます。

〈1875年 5月7日 樺太・千島交換条約〉:ロシアとの関係

朝鮮とは関係ありませんが、外交関連です。

「樺太・千島交換条約」は雑居・共有としていた「樺太(サハリン)」で頻発していた、日露両国の紛争を無くす為の条約です。

「樺太」ってどこだよって思った方へ、地図を乗せておきます。

北海道の上にある、大きな島です。

〈樺太:Wikimedia Commons〉

経緯

「樺太」が島であるが故に、日本とロシア両国の住民が住めるようになっていたのです。

しかし当然、国が違う人々が住めば揉め事が頻発します。

「樺太」を巡って、明治政府も2つの意見に割れました。

1つ目は「樺太」を南北で分断し、両国民の住み分けを求める「副島種臣」外務卿の意見です。

〈副島種臣:Wikimedia Commons〉

もう1つが「遠隔地の樺太を早く放棄し、北海道の開拓に全力を注ぐべきだ」と、樺太放棄論を掲げる「黒田清隆」開拓次官の意見です。

〈黒田清隆:Wikimedia Commons〉

この論争は「副島種臣」が「明治6年の政変」での下野により、樺太放棄論に決定しました。

以降は北海道の開拓に注力します。

結果

「樺太」に対する日本の領有権とロシア領の「千島列島」を交換しました。

「樺太」は北海道よりも大きい島なので、「千島列島」と交換出来るなら、ロシアとしても悪い話ではなかったのです。

「樺太・千島交換条約」を締結したのは「榎本武揚」です。

〈榎本武揚:Wikimedia Commons〉

皆さんは「榎本武揚」を覚えていますでしょうか?

戊辰戦争の箱館戦争で、旧幕府軍として最後まで戦った人物です。

彼は殺されることは無く、明治政府にスカウトされていたのです。

理由は「留学経験があり、海外の事情に詳しいから」です。

戊辰戦争当時から、「榎本武揚」はロシアの南下に危機感を持っていました。

明治政府は彼を失うのは勿体無いと思い、スカウトしたのですね。

最後まで明治政府に歯向かっていた人物が、新しい時代で日本の為に働いていると考えると、感慨深いですね。

〈1875年 9月 江華島事件〉

経緯

日本の軍艦の「雲揚号(うんようごう)」が、朝鮮の領土である江華島付近を勝手に測量しました。

朝鮮を挑発して戦争を誘発したのです。

攻撃された報復として江華島の隣の島である「永宗島」を占領しました。

〈江華島事件:Wikimedia Commons〉

江華島は韓国のかなり左上にあります。

日本は欧米列強と肩を並べる為に、植民地を獲得したいと考えていました。

そこで目を付けたのが朝鮮という訳です。

〈1876年 2月 日朝修好条規 締結〉:日本に有利な不平等条約

1876年、黒田清隆が「江華府」という場所に派遣され、日朝修好条規が結ばれました。

下の写真は「日朝修好条規」の締結式です。

〈日朝修好条規の締結式:Wikimedia Commons〉

当時朝鮮は江戸時代のような鎖国の方針を取っていましたが、日朝修好条規により開国させられました。

※ここで超重要事項があります。

「日朝修好条規」は日本に有利な不平等条約なのです。

日朝修好条規で覚えてほしい内容は、以下の通りです。

条項内容特徴・影響
第1条清国の朝鮮に対する「宗主権」を否定清と朝鮮のの宗属関係を否定し、朝鮮の独立を強調
第3条日本に「領事裁判権」を認めさせた日本人の犯した罪は日本で裁く
第4条釜山(プサン)・元山(げんざん)・仁川(じんせん)の3つ港を開港(朝鮮は関税自主権も喪失)日本に有利な開港で通商開始、不平等条約化

全部大事なので1つずつ確認していきましょう。

清国の朝鮮に対する「宗主権」を否定

パッとしない内容ですよね。

この内容の意図は、「朝鮮を植民地化したいから、清は首突っ込まないでね」です。

「宗主権」=「ある国の内政・外交を管理し決定する権力」を指します。

中国(清)は古来から朝鮮と従属関係を結んでおり、「朝鮮に何かあると中国が助ける代わりに、中国の言う事聞く」という関係性があります。

この関係を「冊封(さくほう)体制」と言います。

中国(清)に口出しして欲しくないので、第1条で認めさせました。

日本に「領事裁判権」を認めさせた

これは聞き馴染みのある言葉かもしれません。

江戸時代末期に日本が欧米列強と結んだ「日米修好通商条約」が不平等条約として有名ですよね。

↓「日米修好通商条約」について解説しています、こちらもご覧ください!!↓

領事裁判権は今回だと、「朝鮮で日本人が犯罪を犯した時に、朝鮮の法律で裁かれず日本の法律で裁かれる」という権利です。

日本に直接的に利益があるかと言われると微妙ですが、この先植民地にして日本人が移住した後の事を考えていたのかもしれませんね。

釜山(プサン)・元山(げんざん)・仁川(じんせん)の3つ港を開港(朝鮮は関税自主権も喪失)

以下の画像が非常に分かりやすいので見て下さい。

〈釜山・元山・仁川:Wikimedia Commons〉

黒田清隆」が日朝修好条規を結んだ「江華府」と、今回開港した3つの港の場所が分かります。

日朝修好条規の本体ではなく、付属文書に「朝鮮の関税自主権の喪失」も定められていました。

関税自主権は非常に強力な権利で、冗談無しに国を崩壊させる程の力を持った権利です。

この先朝鮮は国内が衰退していき、植民地化へと進むことになります。

〈1879年 4月 琉球処分〉:沖縄県 設置

朝鮮と同じく「清」の属国だった琉球王国についてです。

琉球王国は当時「琉球藩」が設置されていました。

↓琉球藩の設置については、こちらをご覧ください!!↓

このタイミングで「沖縄県」を設置した理由を確認していきましょう!

経緯

アジアでは欧米列強が進出し、植民地化が進んでいます。

欧米列強の影響が琉球に及ぶ前に、日本の領土だと示そうとしたのです。

国内では「廃藩置県」が行われ、「藩」が「都道府県」に改称されています。

本当であれば「琉球県」が妥当ですが、「琉球」は中国が付けた名前なので、日本としては面白くありません。

琉球の人々は自分達を指す時に「うちなー」という方言を使います。

「うちなー」に漢字を充てて、「沖縄(うちなー)県」と名前を決めたのです。

しかし、琉球版廃藩置県は「清」にも「琉球王国」にも許可を取っていません。

「清」からも「琉球王国」からも、当然大反対を受けました。

明治政府は大反対をシカトして、廃藩置県を強行しました。

結果

明治政府は軍艦を派遣し、「琉球王国」に攻め込みます。

「琉球王国」の王様だった「尚泰」は東京に連行され、強制的に「沖縄県」を設置しました。

〈尚泰:Wikimedia Commons〉

450年程続いた「琉球王国」はあっけなく滅亡しました。

「清」は猛抗議しますが、明治政府はお構いなしです。

この争いは「日清戦争」で決着する事になります。

〈1882年 7月 壬午事変(壬午軍乱)〉:日朝貿易への不満

朝鮮国内では「親日派」vs「反日派」で争っていました。

「親日派」は日本の明治維新の様に近代化して、朝鮮を強くしようと考える改革派の「閔妃(びんひ)」の政権です。

〈閔妃:Wikimedia Commons〉

対する「反日派」は、今まで通り中国(清)に守ってもらおうと考える保守派の「大院君(たいいんくん)」の政権です。

〈大院君:Wikimedia Commons〉

大院君が武装蜂起をし、日本の公使館を襲撃しました。

この事件を「壬午事変」と言います。(壬午は当時の干支です)

下の写真は公使館襲撃の様子です。

〈公使館襲撃:Wikimedia Commons〉

この武装蜂起に対し、清国は即時に出兵し反乱を鎮圧しました。

反乱を受け、日本と朝鮮の間で「済物浦条約(さいもっぽじょうやく)」が結ばれました。

〈済物浦条約:Wikimedia Commons〉

「済物浦条約」の内容は、「日本側被害者の遺族・負傷者への見舞金5万円、損害賠償50万円」などです。

今回の一件で、「有事の際(反乱など)は、清の方が頼りになる」という印象が国民や「閔妃」に焼き付いた事です。

反乱こそ失敗しましたが、閔妃も清寄りの立場を取るようになりました。

これ以降、清との結びつきが強まり、「事大党」という清寄りの組織が結成されました。

〈1884年 12月 甲申事変〉:閔妃政権(親清)の政治に不満

最初親日だった閔妃政権は、「壬午事変」により、清寄りの政権に変更されています。

しかし1884年の「清仏戦争」を契機に、親日派の組織である「独立党」がクーデタ―を起こしたのが、「甲申事変」です。

「清仏戦争」で清はフランスにボコボコにやられたので、このまま清と一緒にいると朝鮮も侵略されてしまうと危機感を募らせたのです。

「金玉均(きんぎょくきん)」「朴泳孝(ぼく えいこう)」が率いる「独立党」vs「閔妃」が率いる「事大党」の争いです。

〈金玉均:Wikimedia Commons〉

〈朴泳孝:Wikimedia Commons〉

結果は親日の「独立党」のクーデターが失敗し、日本に亡命する結果になりました。

このクーデターの際、朝鮮に住む日本人が被害に遭い、日本は問題視しました。

朝鮮に賠償金を請求し、1885年に「漢城条約」が結ばれました。

この朝鮮のゴタゴタを見て、「福沢諭吉」は「脱亜論」を発表しました。

〈福沢諭吉:Wikimedia Commons〉

「脱亜論」の内容は「日本はアジアで連携して欧米に対抗するのではなく、アジアを日本の領土にして欧米列強と対抗せよ」です。

福沢諭吉は「慶応大学」を作った人なので、学問ばかりに目が行きがちです。

しかし実は非常に好戦的な考えを持つ人物です。

〈1885年 4月 天津条約〉

日本と清が「天津」という場所で条約を結びました。(地図の赤い場所)

〈天津条約:Wikimedia Commons〉

日本の代表は「伊藤博文」、清の代表は「李鴻章(りこうしょう)」です。

〈李鴻章:Wikimedia Commons〉

天津条約の内容は、以下の2つです。

①日清両軍の朝鮮からの撤兵

②将来朝鮮に出兵する事がある場合は、お互い事前に通告する(抜け駆けは禁止)

日本は朝鮮を植民地にしたいですが、なるべく清とは争いたくありません。

揉め事が起こらない様に、あらかじめ手を打ったという訳です。

〈1885年 11月 大阪事件〉

大阪事件は自由民権運動で解説していますが、甲申事変が原因で起きた事件なので復習です。

自由党の「大井憲太郎」と、女性民権運動家の「影山英子」が朝鮮に渡り、独立党政権の再建を企てるという、とんでもない事件です。

〈大井憲太郎:Wikimedia Commons〉

因みに「影山英子」は「わらわの半生涯」という本を出しています。

〈影山英子:Wikimedia Commons〉

事件の結果としては、速攻でバレて逮捕されました。

日本国内で自由民権は無理だと考えた2人が朝鮮で自由民権運動を展開し、それを日本に持ち帰り圧力をかける事により、自由民権を達成しようとする凄まじい計画です。

〈1889年 防穀令〉:朝鮮で出された

「防穀令」=「米・大豆の輸出を制限した法律」です。

あまり知られていない出来事ですが、日朝関係を悪化させた重要な出来事です。

詳しく見ていきます!

経緯

1876年に締結された「日朝修好条規」により、朝鮮国で生産されたお米や豆といった穀物を日本が輸入するようになりました。

穀物の生産高は天候に左右される為、例年よりも生産高が減少する場合があります。

「防穀令」が出された1889年の朝鮮では、生産高が大幅に減少しました。

朝鮮国内の食糧事情が厳しくなった為、「防穀令」が出されたのです。

「防穀令」により日本へ輸出される穀物の量が減少します。

朝鮮国が輸出する穀物で商売をしていた日本の会社は、「防穀令」により経済的な打撃を受けたそうです。

結果

日本政府は朝鮮に賠償金を要求しました。

加えて、「防穀令」の解除も要求しました。

朝鮮は1890年に「防穀令」を解除し、1893年に賠償金の支払いに応じました。

朝鮮にとっては屈辱的な内容で、大きな反発がありました。

しかし日本と戦争しても勝てないと分かっていたので、要求を呑む他無かったのです。

第2次 伊藤博文 内閣

「大阪事件」から日本は内閣制度を整え、総理大臣5人目の第2次「伊藤博文」内閣が組閣されています。

〈1894年 3月 甲午農民戦争(東学党の乱)〉

「東学」というのは、西洋の考えを否定する学問です。

当時の朝鮮国内はボロボロなのに閔妃政権は汚職が蔓延していて、農民達の生活は楽になりません。

我慢の限界に達した農民達が「東学党」という西洋反対組織と手を組み、閔妃政権に反乱を起こします。

「甲午農民戦争」の勃発です。

農民達の怒りのボルテージは最大で反乱軍がメチャクチャ強く、閔妃政権は清に応援を要請します。

「天津条約」に基づき清から日本に出兵の通告が来ました。

日本も「朝鮮に住む日本人の保護」を名目として、朝鮮に出兵しました。

乱自体は鎮圧しましたが、日清両軍とも撤退しませんでした。

ここで日本は清に「一緒に朝鮮を改革しませんか?」と提案します。

清の立場から考えると、朝鮮は今までずっと属国として扱ってきたので、日本に首を突っ込まれたくないです。

清は日本の提案を拒否します。

清の拒否を受けて朝鮮王宮を襲撃・占拠し、「高宗」を捕えます。

〈高宗:Wikimedia Commons〉

日本に協力的姿勢を示していた「大院君」中心の政権運営を強引に認めさせました。

更に大院君から清国兵追放を要請する文書を得て、清に宣戦布告しました。

〈1894年 7月 日清戦争 開戦〉

〈日清戦争:Wikimedia Commons〉

日清戦争の主な戦いは、以下の通りです。

①豊島沖海戦 1894/07/25 (日清戦争開戦)

②黄海海戦 1894/09/17

③大連・旅順の占領完了 1894/11/21(下の写真)

④威海衛占領完了 1895/02/02

戦争と言うと陸の戦いをイメージするかもしれませんが、日本は島国なのでまずは海での戦いがメインとなります。

〈大連・旅順の占領:Wikimedia Commons〉

〈1895年 7月 下関条約 締結〉

〈下関条約:Wikimedia Commons〉

今回一番大事な内容です。

日本の代表は首相の「伊藤博文」と外相の「陸奥宗光、清側の代表は「李鴻章」です。

〈陸奥宗光:Wikimedia Commons〉

下関条約の内容は、以下の通りです。

  • ①朝鮮の独立を清に認めさせる(朝鮮は清の属国ではない)
  • ②遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に割譲
  • ③賠償金2億両(3億1000万円)
  • ④蘇州・杭州・重慶・沙市の開港

1つずつ確認していきます!

①朝鮮の独立を清に認めさせる(朝鮮は清の属国ではない)

日本が朝鮮に何をしても口出しさせないようにしました。

朝鮮に清にはもう頼れないと脅すことが可能になりました。

国号を 「大韓帝国」 に改めました。

「独立国であること」、「清との冊封体制から完全に離脱したこと」をアピールする為です。

②遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に割譲

下の写真が「遼東半島」です。

遼東半島の場所は非常に大事なので、ここで絶対に抑えましょう!!

〈遼東半島:Wikimedia Commons〉

下の写真が「台湾」と「澎湖諸島」です。

〈台湾と澎湖諸島:Wikimedia Commons〉

③賠償金2億両(3億1000万円)

当時の国家予算の約4年分という、とんでもない額の賠償金を手に入れました。

この賠償金の元手に、1897年に「貨幣法」を制定し「金本位制」に移行します。

同じく1897年に「八幡製鉄所」の設立に繋がりました。

〈八幡製鉄所:Wikimedia Commons〉

〈1895年 4月 三国干渉〉

「満州」進出を目論むロシアが、ドイツとフランスを誘い、遼東半島の返還を日本に要求してきました。

〈遼東半島:Wikimedia Commons〉

遼東半島を抑えられると、日本がそのまま北上して勢力を伸ばすのは目に見えています。

ロシアは日本の邪魔をしてきたという事です。

日本に三国を相手する力は無いので、この要求を受け入れざるえませんでした。

1895年11月8日、三国干渉の結果、日本は「遼東還付条約」に調印しました。

〈遼東還付条約:Wikimedia Commons〉

遼東半島を返還する代わりに、代償金として3,000万両(4,665万円)を受け取りました。

しかも清に「旅順・大連」を返還するだけでは終わりません。

ロシアはそのまま「旅順・大連」を実効支配しました。

この事実はロシアに対する強い怒りに変わりました。

このロシアに対する復習の心を「臥薪嘗胆」と言います。

〈1895年 5月 台湾総督府 設置〉

下関条約で台湾を手に入れた日本は、台湾支配の拠点として「台湾総督府(下の写真)」を設置しました。

〈台湾総督府:Wikimedia Commons〉

初代総督には「樺山資紀(かばやますけのり)」が選ばれました。

〈樺山資紀:Wikimedia Commons〉

〈1895年 10月 閔妃殺害事件〉

「大院君」と駐韓公使の「三浦梧楼(みうらごろう)」によって、長らく権力を握っていた「閔妃」が殺害されました。

〈三浦梧楼:Wikimedia Commons〉

受験生の方へ

大学受験を迎えるに当たって、絶対に外せない書籍があります。

それが日本史一問一答です。

 

 日本史一問一答【完全版】3rd edition [ 金谷 俊一郎 ]

今まで多くの日本史一問一答に目を通してきましたが、ダントツで使いやすいのが東進ブックス出版の一問一答です。

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以下が実際の例題です。

日蓮は[★★]教が仏法の正しい教えである事を悟り、

[]を唱える事によって救われると説いた。

文章が虫食い形式になっており、虫食いの[]の中に星1〜3が書かれていて、一目で単語の重要度分かります。

例題の答えは、★★=法華、=題目、となります。

私立大学にしろ、国公立大学にしろ、日本史受験をするなら絶対に必要になる書籍です。

学校のクラスを見渡すと、既に持っている人もいるのではないでしょうか。

自分が受ける大学の難易度に合わせて、勉強量を調節できる書籍なので、受験勉強のゴールを知る為にも、一回は目を通して欲しいです。

早めに対策した者が受験勉強を制します。

さぁ、日本史を楽しみましょう!

 

 日本史一問一答【完全版】3rd edition [ 金谷 俊一郎 ]

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